カウンター席に腰を下ろし、ホタルイカの酢味噌和えを肴に、ぬる燗の司牡丹を飲んでいた。ふとメニューに目をやると、右隣の女性と目が合った。女性はじっとこちらを見ていたかのような視線の強さで、私が視線を逸らす間もなく話しかけられた。

すごく辛いことがあったので一緒に飲んでくださいと。

歳はいくつくらいだろうか、薄化粧ではあったが、彫りが深く顔は濃い印象を受け、後々の話の内容から察すると同世代とみた。女性に歳を訊ねることほど無粋なことはないが、会ってすぐに年齢を察するのも野暮ったいものだ。兎も角その女性は瓶ビールで唐揚げとポテトフライを食べていた。辛いことってなんだろうか、気にはなったがいきなり深入りするのは礼を失するというものだ。私は瓶ビールに付き合い、ごあいさつ代わりにグラスで乾杯した。


辛いことがあった、確かに女性はそう言った。ところが女性の話には辛そうな部分がなかなか見えてこない。核心を話すよりも外堀から攻めて人となりを知ってもらおうという魂胆か。否、初対面の、しかも酒場で知り合った男に人となりを知ってもらう必要性など微塵も感じない。しかし女性の話は的を得ない。中一になる娘が生意気だとか、パートとして働く職場で不倫が横行してるとか、念願のEXILEのライブに行ったというような普通の酒場話から、旦那の夜が弱いとか、一度クラス会で再会した元カレに愛情が再燃したとか際どい話までしていたが、何が辛かったのか一向に見えない。よほど辛すぎて話す気になれないのか。


ヒラメの造りと筑前煮を注文し、再び司牡丹をぬる燗にしてもらう。女性がお酌してくれて、筑前煮を少しつまんでもらった。箸の使い方が特徴的で、薬指で箸を扱ってる、そんな印象だ。

女性の話はクラス会で再会した元カレとの過去の日々についてだった。出会いから初デートに至る経緯や、いくつかの修羅場を経験し、やがて別れがくるという女性の物語はありきたりで、私は少々うんざりし始めていた。店内のテレビでは野球中継を放送していて、阪神が巨人にリードされていた。瓶ビール三本目を注文したところで女性は明らかに酔い始めた。水を頼み女性に飲ませる。水を一気に飲み干したので、もう一杯水を頼んで女性の目の前に置くと、女性は遠い目をして言った。

久しぶりに会うと、好きだった頃の情熱が蘇るのよ。

また関係が戻ったのかと訊くと、まっすぐこちらを見て否定した。

わたしにも家族があるから。でもやっぱ好きだわ。


私も似たような経験がある。何年か前の高校の同窓会でのこと。同じクラスだった生徒会役員の同級生から、高校時代ずっと好きだったと二次会のカラオケ店で言われた。まるで気がなかった女性で、まともに話した記憶もない。男として悪い気はしないのだが返答に困る。

あぁそう?それはありがとう。

精一杯の返答である。もう少し男としての器が大きければ気の利いた返答ができたのだろうが、さらに困ったのはそれを聞いていた隣の同級生が、わたしも好きだったと言われた事。

私のモテ期は高校時代、すでにピークを迎えていたのかと愕然とした。

記憶が20年前の風景を脳裏に映し出す。高校生当時、交際していた女性もその時同じカラオケ店にいて、安室奈美恵を歌っていた。その子の部屋に遊びに行った時、いつも安室奈美恵を聴いていた気がする。ミスチルやスピッツなんかもよく聴いたが、思い出深いのはやはり安室奈美恵だ。安室奈美恵は私達と同い年で、言わずもがな、スーパースターだ。

ミスチルやMy Little Lovertrfやスピッツなんかで盛り上がる。私達にとってはそれぞれに思い出深い曲のオンパレードだったが、そのカラオケ店で『懐メロ』というジャンルにカテゴライズされていた時は歳を感じた。すると不意に元彼女が隣に座ってきた。久しぶりと言う眼がほんとに懐かしい。

なんかあんま高校の頃から変わってないやん

そうか?お前は老けたなぁ。

サイテー!

イチャイチャするなと周囲から茶化される。いくつになってもノリはあの頃から変わらない。


また記憶が20年前を映し出す。

高校3年の夏、彼女と二人で海へ出かけた。空に浮かぶ大きなソフトクリームのような積乱雲と青空、穏やかな波音に包まれる中、海岸線を歩きながらいろんな話をした。他愛もない話が大半だったと思う、具体的にどんな話をしたかまでは覚えていない。やがてソフトクリームがオレンジソフトクリームに変わり始め、青色と茜色が混じり合い微妙なグラデーションを見せる。東の空はすでに藍色と化し、夢のような時間は終わりを迎えた。

帰りたくないね、このままどこかへ二人で行こうかなんて馬鹿なことを言いながら帰りの電車に乗った。電車ではお互い疲れ果てていてずっと眠っていた気がする。

彼女の家まで送って行った時すでに22時を過ぎていて、カンカンに怒った親父さんにぶん殴られた痛みは今でも覚えている。殴られて倒れ込んだアスファルトの匂い、親父さんを制止してくれた彼女の優しさ、今日のところは帰りなさいと言いながら起こしてくれた彼女のお母さんの優しい声、玄関先でおどおどしていた彼女の弟の表情、みんな記憶が蘇る。

その後、馬鹿みたいに大騒ぎした二次会は終わり、解散となった。またみんな現実に向けて歩を進めた。


テレビでは相変わらず阪神巨人戦を放送していて、福留がタイムリーを打ち阪神が2点差にまで追い上げた。そして続け様にマイコラスの暴投で阪神が1点差にまで追い上げる。店内は歓声と拍手が沸き起こり、女性の話が遮られた。この店の名物の水炊きを食べないかと女性が言う。見ず知らずの酔客と鍋というのも乙なものか、私は食べることにした。

店員が鍋の準備を始めた時、突然女性が核心を話した。

元カレと不倫していたけどふられた、と。

結局不倫したんかい!心の中でつっこむ。

ダメよねぇ、母親失格よねぇ。

女性が項垂れる。家族がいるからしないと言っていた30分前の口はどこへやら。女性の薬指の指輪が冷たい。


実は高校3年生の夏、あの海へ行ったのは私が無理やり彼女を連れ出したからだ。彼女は受験生ということで外出を禁じられていた。そればかりか彼女の家にも入れてもらえず私はやきもきしていた。何か行動しないと何も変わらない。窓から彼女宅に侵入し、彼女の手を引いて二人で逃避行した。あてもなくとにかく海へ。私は若かった。後先考えない若気の至りではあるが、私には忘れ得ぬ日となった。所持金が電車賃を差し引くと二人で400円くらいしかなかったので、二人でクリームパンとコーラを買って分け合ったのも思い出深い。間違いなく二人には笑顔しかなかった。


鍋を食べ終え、酒も飲み干すと女性は丁重に頭を下げてありがとうと言った。 

なんでも件の元カレからLINEが入り、今から会うのだという。

え?フラれたんちゃうんかい!!

私は目が点になり、どういう状況かわからなくなった。なんでも元カレは、この前は悪かった、もう一度会ってほしい、そのような事を言ってきたらしい。これを読んだ人なら誰もが想像する男像こそ元カレだろう。やめておいたほうが、その言葉を酒と共に飲み込む。

不倫を咎める聖人になるべきか、女性の不倫を応援する賢人となるべきか。女性は物の分別がつく大人。何事も自己責任を取らないといけない。私は後者を選択した。ともあれ女性は嬉々として帰って行った。


あの夏から20年、元彼女は同窓会での別れ際に、じゃあまた機会があれば連れ出してと私に言った。

おう、今度連れ出す時は一生やから覚悟しとけ

元彼女の顔が一瞬真顔になる。ふっと口許が緩み、期待しとくと笑った。

お互い連絡先は交換していない。今どこに住んでいるのかも知らない。私はもう同じ道を歩くことは二度とないと暗に言った。そして彼女はそれを汲み取った。それでいい。想い出は美しければ美しいほど今が辛くなることもあるが、その美しさがあるからこそ心が豊でいられる。想い出はしがみつくものではなく大切にするものだ。不倫が悪だとまでは思わないが、私には性に合わない。だから隣の女性を誘う元カレの気持ちは、理解できるが肯定もしない。価値観の相違を議論しても並行線のまま解決しないことが常である。故に自分は自分、他人は他人なのだ。

元彼女は別れ際に言った。

あの日は暑かったねー。でも、ほんまに嬉しかった。


店内のテレビは野球からNHKに変わっていた。私は皿に残った筑前煮を食べて酒を飲み干した。隣の女性はまたお会いしましょうと言って店を出た。今度会ったらもっと踏み込んだ話を聞いてみようかな。

おあいそしてもらう。鍋はなかなか美味しかったが、やたらと量が多くお腹いっぱい。相変わらずこの日も酒は美味かった。

ごちそうさま、ん・・・えらく高いな。

隣の女性は支払わず店を出たらしく合算されていた。酔った勢いもあり思わず声が出る。

俺が払うんかい!

店を出て月を見上げる。お月さんは雲の中。おちょこたるこの器、なんとか大きくならないものか。また暑い夏が来るというのに。そして阪神タイガースも巨人に負けた夜だった。