依存とは、不安に対して何かで処理することである。というのがブログを読み漁った私の感想である。アルコール依存、摂食障害、ワーカホリック、人間の抱える問題は色々あるだろうが、あらゆる問題の根は「自らの感情的葛藤に対して外側の何らかの手法で痛み止めをしようとすること」だと思う。それが食に向くか仕事に向くか、または別なものに向くかである。これはその人の人生によってどう向きやすいかは決まってくるだろうが。


葛藤、というのがミソであり、心理的に苦しむ時、人は自分の中に二つの意見を持ち、かつその力関係が拮抗している。ゴキブリが嫌なことに苦しむ人はいない。しかし母親が嫌いなことに苦しむ人は大勢いる。

例えばDV男に毎日殴られるのは誰だって辛い。これは心理的な痛みだけを言うのであれば、離れたい、のに何らかの理由で離れられない、という自己矛盾の苦しみではなかろうか。

もう一つ例を挙げれば引きこもりは辛い。よく楽をしていると誤解されているが、脳内で自分を絶えず責めているのは地獄に違いない。彼もしくは彼女がどうすれば楽になれるかは誰か他の方のブログを読んでいただくとして、この場合も外に出られない、しかし外に出なければならない、の自己矛盾から苦しみが生じている。


人間が持つ最大の葛藤とは「人が煩わしいのに一人では生きていけないこと」だと思う。だからこそ誰もが苦痛を感じ、酒飲んだり色々やって麻痺させるのだ。それが更なる苦しみを呼ぶ。その仕組みをアドラーは「全ての悩みは人間関係である」と言ったのではないだろうか。


人間関係がおかしくなるのは、母親との関わりに鍵があると既にあらゆるところで指摘されている。人は無力で生まれてくる。外の恐怖に怯えても、母親がその度に優しく受け止めてくれ、安全基地としての役割を果たしていれば子は安心することができ、外の世界へ冒険していける。そしてその繰り返しによって子はいずれ心の中に優しい母を作ることができるようになり、いちいち母を求めずに済むようになる。これが理想である。

しかし何らかの事情で母親が安全基地として成立しておらず、優しい母親の内在化に失敗すると心はいつも無力で怯えており、外側の「母なるもの」への渇望がやまない。もしこれが実際の母親に向かえば母への悪態になるだろうし、母に期待しないなら母代わりの異性、母代わりの評価、母代わりの刺激に依存していくことになる。


というわけで、酒好きスマホ依存症女子としては大変書いてて耳が痛いのであるが、依存傾向に自覚のある人は「自分を甘やかさないが、甘えさせる」ことをやってみるといい(これまで甘えと無縁な人生を歩んできたならば甘やかすことにも意味があるが、依存系の人は結構自分を甘やかしてはいるので)。言い換えるならば、自分の情緒的欲求にはしっかり応え、物質的欲求には制限をかけることである。大抵の依存系はこの逆をやっている。つまり事あるごとに自分を心理的に痛めつけボロボロにする割には、甘いものやら酒やら、物質的な欲求には無制限で応えるのである。これは自分の声なんてめんどくさいから酒で誤魔化しちゃえ、みたいな感じの一種の怠慢とも取れる。


まずは優しい親を内在化させよう。具体的には、どんな自分でも受け入れ励まし、適切に評価して褒めよう。最後は穏便な結論になったな。

自分を甘やかそう!キラキラ〜に違和感を覚える人間は私だけではあるまい。