東日本大震災の日、私は新宿にいて帰宅難民になりました。
都庁に避難し、段ボール箱に包まれて不安な夜を過ごしました。
被災された皆様の生活が、一日でも早く元に戻ります事を心より願っています…。
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『犬洗い承ります。』 緑川 烈の話
“猛暑”の二文字が、毎日ニュースの画面に踊り始めた夏のある日。
勤めていた会社が倒産した…。
入社して3年目。夏のボーナスが出なかった時点で多少心配はしていたものの、実際そうなってみると顔面蒼白になる。風呂付の部屋への引っ越しを夢見て、コツコツ貯めていた貯金で何カ月暮らせる?とは言え、まだまだ薄給の身…それはスズメの涙程度の微々たるもので、俺は明日からの生活を思い頭を抱えた…。
倒産の理由は、業績の伸び悩みに伴いメインバンクからの融資差し止め、他からの資金繰りもうまくいかず遂に…とか何とか、そんな尤もらしい噂を聞いた…。でも詳しくは知らない。社長は温厚でお人好し、もしかしたら悪い奴に騙されたんじゃないかって俺はちょっと思ってる。倒産の理由は定かではないが、俺が無職になった事は紛れもない事実。突然の事だから当然のように退職金など出るはずも無かった。俺の手元に残ったのは、会社が社運を掛け、独自に開発し、自社工場で生産したにも関わらず、とうとう小売業者には卸される事がなかった大量の在庫品。
それは、『ペット用リンスinシャンプー ふわリンシャン』だった。
商品は純石けん分99%。ペットを毎日でも洗え、香りもほのかで環境にも優しいエコ仕様が売りだ。モニターアンケートでの手応えは上々。ペット産業が上向きの昨今、発売されれば売れるはずだった。開発に携わっていた俺もそう確信していたのに…。
狭いアパートの空きスペースにうず高く積まれた段ボール箱。可愛い犬と猫のイラスト付きだ。社屋も機械も全部売り払って、丸裸になった社長がこれだけは俺達にって死守した未発表の新商品。残った社員全員で分けて、退職金代わりにそれぞれが持ち帰った。こんなに大量に渡されたって困るだけだろうなんて、きっと社長は考えもしなかったんだろうな…。そんな人だ。そう、そんな人の良いオヤジだった。お陰でエアコンの無い部屋の温度はいつもより高くなっていた。扇風機だけで凌ぐには今年の夏は暑過ぎる。
「何とかしなくちゃ…」
段ボール箱の中身もそうだが、まずは俺が食っていくための仕事探し。
雇用保険を貰いながらハローワークで新しい職を探す毎日。保険金を貰える期間はたぶん3ヶ月間。始めは、仕事なんて選ばなければすぐに何とかなるだろうと少し楽天的に考えていた。しかし、不景気の煽りをまともに食らい、再就職先はなかなか見つからなかった。商品開発に携わっていたと言っても、表だった実績など何もない俺。事務職にも営業職にも向かない研究畑の人間なんかを中途採用で雇う会社など無いに等しい。
(資格でも持っていればアピールになるって言われてもな~…)
ハローワークで相談にのってくれている職員の人にそう言われた。
俺の持っている資格と言えば、犬好きが高じて学生時代に取ったペットトリマー免許だったが、女性の多いサロンにガタイのいい男の俺は雇って貰えなかった。理由は、顧客の大半を占める小型犬が怯えるからだとか…。
(俺は肉食獣か?!)
実際には飼い主が嫌がるからだろうと思ったが、それは言えなかった。体格がいいのは生まれつきだから仕方がない。骨太のどこが悪い!こう見えても、意外に手先は器用なんだぞ!
「ハァ~、今日もダメだった…」
夕方、重い足を引きずって家に帰った俺は、上着を脱ぎ捨てネクタイを引き抜いた。面接まで漕ぎ着けたはいいがその場で断られた。パソコンの資格が無いとダメだと言われた。操作は出来るが資格は持っていない。資格!資格!資格!どこへ行ってもそんな話ばかりだ。
(そう言う資格が必須なら、採用条件に最初からそう書けよ!!)
特別その会社に魅力を感じたから応募した訳ではないんだけど、期待をして出向いていただけに落胆も大きい…。これで断られた会社は何社になっただろう。落ち込むだけだから数える気にもなれない。厳しい現実に気持ちが萎えそうだった。とにかく、アパートの家賃が払えなくなったらアウトだ。光熱費だってかかるし、暑い夏の時期で銭湯代だって馬鹿にならない。
(なんか、疲れたな…。)
仕事をしていた頃も毎日忙しくて疲労困憊って感じだったけど、気力が充実していた分同じ疲れでも心地よい部分があった。でも今は…ただ重い疲れだけが体に残る。
ドサリッとベッドに倒れ込んだところで、行き成り携帯電話が鳴りだした。正直、今日は電話に出る気力も残っていなかった。誰かと話すのも面倒だった。それでも、俺の手が携帯電話に伸びたのは…運命の予感だったんだろうか…。
『もしも~し、レツ?…俺~。今、暇か?』
電話の相手は高校時代から付き合っている友人だった。社会に出た今も腐れ縁なのか細々と付き合いは続いている。こいつにだけは会社が倒産した事を言ってあった。アパートを追い出されたら真っ先に駆けもうと思っている非難場所だ。親が金持ちらしく、若いくせに防音設備の整った立派なマンションで一人暮らしをしている。
俺が無職になった事を告げた時、人生のリセットだとか、試練を乗り越えてこそ人は成長するだとか鼻息も荒く、そしてどこか楽しげにほざいていた。気はいいんだが昔から空気を読まない能天気な苦労知らずのボンボンだ。無人島に取り残されても原始の生活を楽しむ、そんな奴だ。大学は別れて奴はヴァイオリンを抱えて音大に進んだ。そこを卒業し、どこかのオーケストラに就職したはず。まったく芸術家って奴はどうも浮世離れしている気がする。庶民に試練なんていらない!欲しいのは生活の安定だ!俺は一瞬、電話に出た事を後悔した。
「…それは、嫌味か?暇じゃない!忙しい!…今からバイトで時間が無いから切るぞ!」
俺が職探しに奔走しているのを知りながら、『暇か?』は無いだろう!
ただ、俺が忙しいのは事実だった。そろそろ夜のバイトの時間が迫っていた。俺は、先輩が雇われマスターをしているバーで日銭を稼いでいる。先輩は二年浪人しているから俺よりは五歳年上だ。とは言え、今年三十路に突入するとは思えないほど見た目も若く肌艶もいい。ノーマルな俺としては新宿二丁目と言う場所柄は気になったが背に腹は代えられない。この際、客のほとんどがゲイだって事も目を瞑る。年上のクール系が好きな先輩の好みでは無い俺だが、ここではこのガタイがいいのが受けるらしい。落ち着いた雰囲気のこのバーは、男同士が出会いを求めるための場所らしく、ホストクラブのように従業員が特に客の接待をする必要はない。カウンターの中でグラスを磨いたり、酒の注文を受けたりしていればいいので気が楽だ。暇つぶしに話しかけられる事もあったが、多くを語る必要は無い。たまに体を触られるのが難点だが、その分時給はよかったし最近ではうまくあしらう術も覚えた。
『おいおい!待てよ~。機嫌悪いな~…。タイミング悪かった?ところでさ、頼みがあるんだけど。…お前、大型犬とか好きだったろ?で、確かトリマー免許持ってたよな?…あのさ、犬洗いしてくれないか?』
「犬洗い?トリミングって事?」
『うん。知り合いなんだけど、今まで来て貰っていた人が結婚して他県へ引っ越ししちゃったらしいんだ。気難しい性格の犬だから、慣れないサロンへ連れて行くのも難しいって相談されて、おまえの事を思い出したんだよ。頼むよ~。』
約束した日は朝から全力で暑かった。天気予報では今日も猛暑日になるらしい。でも、俺は鼻歌が出るほど上機嫌だった。就職先は相変わらず決まっていなかったけど、今日だけはその事を忘れる事にした。俺は無類の犬好き。しかも、自分では飼えない大型犬が大好きだった。
(グレートピレニーズか~♪)
犬種を聞いて俺は舌舐めずりをした。ふかふかの超大型犬。否応なしにテンションが上がる。スキップさえしたい気分だ。
さてさて、グレートピレニーズのグルーミングには少し技術が必要だ。でも、その前に俺に懐くかが最大の問題だと思う。なぜなら、彼らは家族に忠実で、家族が許容しない他人は受け入れないと言う特別な能力があるから。俺と飼い主は面識が無い。
仲良くなれるといいな~。…もちろん犬とだが…。
(犬は敏感だからな~…。えっと…この家だな。)
表札を見上げた俺の目の前には、古いががっしりとした立派な門。開け放たれている門扉に首を突っ込んで中を覗く。門の奥には切り妻屋根の大きな日本家屋と、都会とは思えないほどの広い芝生の庭がちらりと見えた。俺は、きょろきょろとインターフォンを探したがどこにも見当たらない…。困っていると後ろから急に声を掛けられた。
「ねえ…、君、もしかしたら緑川君?…朝早くから来てもらって悪いね。午前中の涼しいうちにって思ったんだけど、今日も朝から暑いな~。」
気さくに声を掛けて来た半袖短パンのその人は、寝ぐせの残った前髪を掻きあげ左手の甲で額の汗を拭った。右手には極太のリードが二本。その先には真っ白でふわふわの大型犬が二頭。
俺はその姿に高鳴る胸の鼓動を押さえられなかった。
(かっけ~!!)
「はじめまして、緑川です。」
上ずった声音でそう言い、ぺこりと頭を下げたが目線は下を向いたままだった。その俺の耳にくすりと笑う小さな声が聞こえた。
「飼い主より先に犬達に自己紹介?」
「あっ…、すみません。」
俺は慌てて顔を上げて、改めて飼い主に目線を合わせた。視線が少し上がるから身長は俺よりも高い。年も幾つか上かな?三十前後って感じ。細身で華奢な印象だけど、服から出ている腕や脚には程良く筋肉がついている。何かスポーツをしている体だと思えた。特に脚の筋肉が見惚れる程綺麗だ。マラソン選手とかの脚に似ている。日頃から鍛えていなければ、いくら躾られているとは言え超大型犬を一度に二頭も軽々と散歩に連れてはいけないだろう。
「いいよ、俺も飼い主じゃなくて同居人だし。それに今日の君の相手はこいつ等だからね。…あれっ?君は…」
「えっ?」
「あぁ、いや…。えっと、名前はポーチとシャロン。」
「ポーチとシャロン…。」
「うん。飼い主だった爺さんが犬の名前と言ったら『ポチ』だろう。毛色が白いから『シロ』だろうって言って付けたらしいんだけど、いくらなんでも今時それじゃ可哀想かな~って事でさ。まあ、爺さんは最期までポチとシロって呼んでいたけど…。なっ、ポーチ、シャロン。」
リードをクイっと引いてそう呼ぶと、名前を呼ばれた二頭のグレートピレニーズは、目の前に立つ俺を一瞥してからクイっと首を持ち上げて甘えるように飼い主…いや、同居人か…を見上げた。
「そっくりで見分けが難しいですね…。」
「ははは、姉弟だからね…。でも、性格は違うから見ていると段々わかるようになるよ。
さあ、入って。まずは冷たいお茶でも飲もう。いきなりじゃこいつらが警戒するし…。特にシャロンはデカイなりして結構人見知りなんだよ。」
案内された庭側の広い縁側に腰を下ろす。硝子の引き戸も、その奥の障子も開け放たれていて、がらんとした畳敷きの和室がほの暗く涼しげだった。縁側の隅には、陶器で出来た豚の蚊取りが置いてある。昔作りの家屋にはひさしがあって、夏の日差しを遮ってくれていた。ひさしの長さは昔の人の賢い知恵で、低い冬の陽はたっぷり取り込み、高い夏の陽はしっかり遮る、そうちゃんと計算されているらしい。今の建て売りや注文住宅にはほとんどひさしが無い。洋風の外観のせいかウッドデッキが人気で、昔ながらの濡れ縁や縁側なども見なくなって久しい。
ここから見える庭には、人目を惹く大きな桜の木が一本と、広い敷地を囲むように何本もの背の高い庭木植えられていて、夏の盛りの今は競うように濃い緑の葉を茂らせている。そのお陰で屋外にも関わらず気温が何度か低そうに感じた。
(田舎のばあちゃんちみたいだ…。)
二百坪はありそうな庭。芝生は青々と茂り、そして綺麗に刈り込まれていた。リードから解放されたポーチとシャロンは、嬉しそうに転げまわりじゃれあっている。ああ~、早く触りたい。
「この家は母方の実家でね、跡取りの伯父夫婦が海外転勤しちゃって、今はその息子である従兄が留守番で住んでいるんだ。で、俺は格安で間借り。
建ててからもう100年は経っているらしいよ。夏は蚊も多いし、広いだけが取り柄の古い家だけど、都心への交通の便は結構いいんだ。」
お盆に載せた麦茶のコップを丁寧な所作で目の前に置く。どうぞって仕草で俺にお茶を勧めて、踏み石の上に置いてあったサンダルを履く。俺はその様子を目で追った。よく見れば整った顔立ちをしている。都会的な雰囲気のこの男が古い日本家屋とはミスマッチな感じがしたのは、ここが彼にとっては借り住まいだからだろうか。それにしても…
(ここは、居心地がいい…)
俺は、“いただきます。”と呟き、水滴の付き始めたコップを手に取り冷えた麦茶を喉に流し込んだ。カランと氷が鳴る音が朝蝉の鳴く庭に吸い込まれる。俺は、久し振りに心が解放されるのを感じた。職を失ってから気ばかり焦る毎日で、ゆっくり空を見上げる余裕もなかった。夏だから仕方がないのに、その暑さにさえ苛ついていた。
時間にしたら30分くらいだっただろうか。
俺達は縁側に座って、当たり障りの無い世間話なんかをしつつお茶を飲んでいた。それだけなのにポーチはそれですっかり俺を信用したらしい。ちらちらとこちらを気にしている様子が可愛くて、俺はもう我慢の限界だった。名前を呼ぶと嬉しそうに駆けよってくれた。顎を擦り頭を撫でると気持ちよさそうに目を瞑る。ポーチのその姿を見ていたシャロンも恐る恐る近づいて来た。俺はするりと縁側を下り、その場でしゃがんで小さい子供にするように彼女に目線を合わせた。すぐに手を伸ばしたら怯えて逃げそうだったんで、そのままじっと動かないで待つ…。シャロンは、怖いもの見たさって感じで近づいて来て、スンスンと鼻を鳴らしながら俺の匂いを嗅ぎ始めた。俺の腕やら背中やら尻やらを一通り吟味し満足したのか、ちょこんとポーチの隣に並んで腰を下ろした。俺はゆっくりとした動作で彼女に触れた。ちょっと上目遣いで身を引く仕草がそそる~。
(か…かわいい~)
手に伝わる生き物の温かさは格別のものだ。緊張を解いた柔らかい筋肉がふさふさの毛の下でしなやかに動く。
「大丈夫そうだね。そろそろ仕事に掛かって貰おうかな。まずはポーチからにしようか。」
通されたのは、外から直接入れる犬専用のバスルームだった。古い家には不似合な洋風の作りになっている。壁はタイル張り。ドア付きのステンレス製大型犬用ドッグバスとトリミングテーブル。もちろんお湯の出るシャワーも完備。
「家の中をリフォームした時に爺さんの要望で作ったらしい。ペットバスなんて贅沢な感じだろ?伯父は爺さんの我が儘だって渋い顔をしていたけど、子犬の時ならまだしも成犬になったピレニーズを、しかも二頭一緒にサロンに連れて行くのは大変だったから伯母は喜んでいたよ。」
(1m40cmのバスタブか~…。人間でも十分使えそうだな…。)
風呂なしのアパートに住んでいる俺としては羨ましい限りだ。このバスタブにたっぷりのお湯を張ってゆったりと入浴する自分を想像して、少し情けない気持ちになった。
ポーチは慣れているらしく俺が器具の使い方などの説明を受けている間、ドアの前にちょこんとお座りをしておとなしく待っていた。
「随分すっきりしたな~お前達。よしよし、気持ちよかったか?…緑川君ってカットセンスもいいね。それにいい匂いでふわふわだ。…使ったのはどこのメーカーのシャンプー?」
庭の芝生に座りじゃれつくポーチとシャロンを交互に撫でながら、縁側で道具を片付けていた俺に向かって何気なくそう尋ねた。
「…実は、…」
俺は会社が倒産し、退職金代わりがペット用シャンプーだった事を話した。
「あっ!倒産した会社の商品だなんて…すみません。でも…」
開発に携わり商品内容を詳しく知っていた俺は、ついついその良さを力説した。こんなに良い商品を作る会社に資金を貸さない銀行についても悪態をついた。自分がこんなに愛社精神に熱い人間だとは思っていなかったから、最後には何だか恥ずかしくなった。
「こんなご時世だし、なかなか再就職先も見つからなくて。…自分の無能さに呆れるばかりです。」
ちょっと投げやりな気持ちになっていたんで今日は本当に楽しかったと言い、俺は自嘲気味に笑った。芝生の上に座った姿勢のまま俺を見上げるその人は、在り来たりな励ましの言葉を言う訳でもなく、ただ穏やかに話を聞いてくれていた。不思議な物で、気持ちが沈む重い話も他人に話すと軽くなったように感じる。俺は少し肩の力が抜けた。
「また頼める?」
別れ際に謝礼と共にそう言われ、俺は満面の笑顔で何度も頷いた。
「ねえ、このまま正式にこの店の従業員にならない?先月一人辞めちゃったから人手不足で…。レツはバーテンダーとしての腕もいいし、口も固い!これ大事なの、こういう店には…わかるだろ?何よりお前は客受けがいいんだよ~。給料アップも考えて貰えるようにオーナーに掛け合うからさ。」
バーのマスターである先輩にそう言われたのは、蝉の声が秋の虫の鳴き声に変わる頃だった。オーナーにはまだ一度しか会った事が無い。長身で物腰の柔らかい四十半ばくらいの紳士だった。先輩の恋人だってもっぱらの噂だけど、真偽のほどはわからないし俺は怖くて聞けない…。男同士の恋愛うんぬんを想像すると頭がパンクしそうになる。
先輩の話を聞きながら、俺の頭に浮かんだのは白い二頭の大型犬。あれから俺は何度かあの家に呼ばれていた。ポーチとシャロンとはもうすっかり仲良しで、トリミングだけではなく仕事が忙しいと言う彼に代わって、平日の昼間散歩にも連れ出すようになっていた。
それにしても、動物の癒し効果は抜群だった。就職は相変わらず決まっていなかったから生活への不安はまだまだ解消されていなかったけど、自分を追い詰め苛立つ気持ちが消えていた。
(給料アップか~…)
強烈な殺し文句だ。
貞操の危機と背中合わせな夜のバイトも慣れれば結構楽しかった。
「ちょっと考えさせて貰っていいですか?…」
俺の返事に先輩は頷き、ポンと肩に手を置いて店の奥に消えた。去り際に、
「レツは、ぜったい素質あるよ…。」
そう呟いた言葉に俺は首を捻った。素質?バーテンダーとしての?俺がそう尋ねたら、先輩はふふふって感じの意味深な含み笑いをした。
夕方から深夜までバーで働いて、始発で帰宅し明け方ベッドに潜り込む生活。若い頃だけなら何とかなるかも知れないが、やっぱり先行きは不安だ。でも、一日も早い生活の安定を考えれば、今は贅沢を言っていられないような気もする。時給では無く給料制になれば今より生活は楽になる…。
何より昼間、自由な時間が出来る事が嬉しい…。その理由を俺は、犬達に会えるからだと思っていた。
“緑川君…。お茶にしよう…。”
もうすっかり通い慣れた広い庭の芝生の上で、俺は二頭のグレートピレニーズに組み敷かれていた。
“そうしていると、大型犬が三頭いるみたいだ。”
寝ころんだまま空を見上げる俺の顔を、笑いながら覗き込む姿は逆光を浴びて金色に縁どられていた。俺の鼓動がドクンと大きく跳ね上がる。差し出された手を掴み立ち上がった。背中やジーンズの尻についた草の切れ端を叩き落としながら、ゆったりと歩く背中を慌てて追う。広い肩幅、コットンシャツの下で微かに動く肩甲骨、閉まったウエストと小振りの尻、そして綺麗に筋肉の乗ったアスリートのような脚。見つめるだけで目の奥が熱く潤む。
(どうしちゃったんだろう、俺…。夜の仕事のせいかな…。)
金曜日のせいか店の中は混んでいた。それぞれが一夜の相手を探そうと目線で探り合う。今夜は、店員をからかって時間を潰す客は珍しくいない。
俺はグラスを磨きながら、心ここにあらずでぼんやりと考え事をしていた。
カラン コロン…
ドアベルの音も耳に入らない。店員としては失格だ。だから、カウンターの傍まで来ていたその人に声を掛けられるまで気付かなかった。
「こんばんは、緑川君。」
店での俺の通り名は『レツ』。
フルネームを知っている客なんて数えるほどだろうし、敢えて名字で呼ぶ客などいない…。俺の体はビクッとし、心臓はバクバクと暴れ出した。
「…グラスビールを貰える?」
静かな低い声だったのに、まわりの空気が一瞬で華やいだ。あちらこちらからざわざわとした囁き声と好奇の目が一斉にカウンターに向いた。…そんな気がした。
聞き覚えのある声と見慣れないスーツ姿に、俺は呆然と固まった。明かりを落とした店内、カウンター越しに見つめるその人は親しげな顔で笑っていた…。慣れた仕草で俺の目の前のスツールに腰を下ろす。
「お…お待ち合わせですか?」
カウンターで待ち合わせなら、右隣の席にリザーブの札を置くのがこの店での暗黙のルールだった。そうして置けば他の客に煩わされる事も無く、無用なトラブルも避けられる。
渇いた喉のせいで少し掠れ気味の声で尋ねたからか、それとも声が小さくて聞こえなかったのかすぐに返事は無かった。リザーブの札に手を伸ばしかけた俺の仕草を見てその意図を察したらしい彼は、小さく首を横に振りながら自らの手で札を置いた。
“待ち合わせではないが一人でいたい。”
そういう意味だろうか?
細いピルスナーグラスを傾け冷えたビールを一気に流し込む。顎が上がり、露わになった喉仏がゆっくりと上下に動く。その様子を俺は黙って見つめていた。
「あぁ~美味い。…日差しが和らいで来たって言っても、まだまだ残暑は厳しいね。」
細かい白い泡の筋が、空になったグラスの内側を滑る様に落ちる。彼は、コースターに戻されたそれをスッと俺の方に向けて押しやり、おかわりを注文した。俺は、冷凍庫で冷やして置いたグラスを取り出し、ビールを注いで新しいコースターの上に乗せた。グラスの裾に刻まれた切り子のようなカット模様にライトが当たり、ダイヤモンドのようにキラキラと輝く。彼は目を伏せ、その光を見つめていた。
「始めから、気付いていたんですか?…俺の事…。」
“いいよ、俺も飼い主じゃなくて同居人だし。それに今日の君の相手はこいつ等だからね。…あれっ?君は…”
初対面の時の会話が不意に頭を過った…。
「…うん…。まあね…。君はここでは目立つ存在だから。偶然とは言え正直ちょっと驚いた。」
偶然?そうだよな…。俺は夜のバイト先は誰にも教えていない。犬洗いを頼んで来たあいつにも…。
「そうだったんですか…。人が悪いな~。今まで黙っているなんて…。もう、心臓が止まるくらいびっくりしましたよ。」
俺は心の動揺を悟られないように冗談交じりの口調でそう言い、照れたように頭を掻いた。
「…ごめん…。何て言ったらいいかわからなくて…。だって、…ここは、ほら…そう言う店だろ?カミングアウトをする勇気が無かったんだ…。君がうちに来てくれるようになってからは来ていないし…。」
君はノンケっぽいからと言い、彼はちょっと困ったような顔をして薄く笑った。カウンターに座る彼に他の店員達が気安く声を掛ける。その様子で彼がこの店の常連客である事がわかる。薄暗い店内、流れるのは静かな音楽。秘密を共有するように寄り添う人達をまじまじと見つめる事は出来ないから、話をする時以外はわざと視線を合わせないようにしていた。俺はほとんどカウンターの中にいた。だから目の前に座る客以外の顔を覚えていない。彼がカウンターに座った事はあっただろうか?どんなに記憶のポケットを探っても彼の顔は出て来なかった。
「無理にここでの俺を思い出さないで…。それより今日は、大事な話があって来たんだ。」
そう言って、俺の目の前に一枚の名刺を差し出した。俺はそれをそっと手に取りまじまじと見つめた。
「えっ?!…ペットサロンを経営されているんですか?」
その長方形の紙には、俺も知っている有名なペットサロンの名前が書いてあった。俺は、ヴァイオリンを弾く腐れ縁の友人の思惑に初めて気付いた。
(あいつ…。)
「今日は、君をいろいろな意味で勧誘しに来たんだ。マスターには悪いけど…。」
彼はそう言い、熱の籠った目で俺を見つめた。俺はごくりと唾を飲み込み、今にも飛び出しそうな心臓を服の上からギュッと握った。
…一ヶ月後…
古いががっしりとした立派な門に
『犬洗い承ります。』
の看板が掛けられた。お客様は大型犬ばかりのペットサロン。俺は住み込みで新しい職に就いた。もちろん念願の風呂付だ!。
ピンポ~ン♪
新しく取り付けられたインターフォンが来客を知らせる。俺は、二頭のグレートピレニーズを従えて急いで玄関に向かった。
「さあ、お客様を迎えに行こう。ポーチ、シャロン。」
おわり


