今年、月が変わり9月になった時、私は息を呑みました。それは私がこの世に生まれ過ごした42年間、一度もなかったことです。私の母であるベグム・サフィア・チーマを亡くした去年の今(2020年9月)のことを思い出すのはとてもとても辛く、深く心のどこかで時が止まってほしいと思っています (1944年1月1日-2020年9月13日 - 茨城県ヤワライスラム教徒墓地)。
いつまでも、いつまでも、母が最高の天空で幸せに暮らせますように願っています。
祖国(Motherland)とは、自身の起源となる場所や先祖が過ごした土地のことで、この世界のほとんどの人にとって大きな価値を持っています。人とその彼らの祖国との間の繋がりには、通常、筆舌に尽くしがたい強さがあります。人は住む所や国籍を変えることはあっても、祖国のアイデンティティを忘れることはなく、それはとても神聖で個人的なものだと考えられています。
私たちの母は、パキスタンのグジュランワラ県ワジラバード近郊の村で生まれ育ちました。彼女は40年以上にわたってハフィザーバードとラホールの街で、波乱万丈で幸せな人生を過ごし、その後、健康状態が悪化して介護が必要になったためイスラマバードに移りました。人生の最後の数年間は、認知症が急速に進行して動きがかなり制限されたため、彼女にはとても苦しい状況でした。しかし、思い返してみると、それは同時に彼女の人生の中で最も美しい年月だったとも思います。特に私にとってその時間は、思い出してみると、彼女の大切な思い出の一部になれたと感じます。私は毎日、彼女の世俗的な欲望や気取りのない真の無邪気さを感じました。これは年を取ったことによる良い影響の1つで、その瞬間を質素に生きることとも言えます。
人生の教訓として次のことがあります。野心が人生から消えたり、その価値がなくなったとき、私たちは実際に、ありのままの自分の存在を受け入れることになり、最も大切で貴重なものが無価値になってしまうのです。
幸いなことに、私や両親がどこに住もうと、私は人生の大部分を両親と過ごしました。しかし母が認知症の問題を抱え、介護が必要な状態に陥る前、彼女が先祖とのつながりについて話しているのをあまり聞いたことがありませんでした。母の介護をしていた私は、母が繰り返す逸話に耳を傾けることにほとんど時間を費やしていましたが、母は両親、兄弟、叔父、いとこに会える村に引っ越したいと強く訴えていました。村は昔の姿のままではない上、彼女の両親や叔父もいないので、彼女の強引な主張は時に受け入れがたいものでした。
私が2019年に東京に赴任することになったとき、彼女のいとこやその家族がずっと日本に住んでいることを知っていたので、母はとても興奮していました。イスラマバードから北京を経由して東京に向かう長距離の旅は、母にとって厳しいものでしたが、家族の再会という希望から得た勇気で成し遂げました。
母が、日本で東京を離れ最初に出かけた先は、甥たちが提案した日光の東武ワールドスクウェアとひたち海浜公園でした。この旅行中、私たちははっきりと覚えているのですが、母は茨城を通るたびに、茨城は自分が住むべき場所だと言っていました。母は、茨城に私たちが週末、東京から訪ねるための家を借りて、そこに食事の世話をしてくれる料理人を置くことを、私にお願いしていました。
偶然にも、いとこや甥たちとの最後の東京の外での観光は、茨城県立自然博物館でした。その時の母は、車椅子に座って観光を存分に楽しんでいて、その彼女の乗った車椅子を押し歩き回った事がとても懐かしい思い出です。(表紙の写真がその旅行の時のものです)。
当時の私たちは、わずか2カ月後に母が茨城の墓地で安らかに眠っているとは、誰も想像すらしていませんでした。茨城は、母がいつも住みたいと言っていた場所であり、自然が近くにあり、彼女の仲間がいる場所です。
私の日本人の友人である今隆博さんは、母の死を悼みながら、素朴さ、誠実さ、優しさをもって次の様に言いました。「チーマさん、あなたは今、あなたのお母さんがここで安らかに眠っていて、私たちの国と特別なつながりを持っています。 日本はあなたの祖国 (Motherland) になりました。」
(これは私の最初の日本語翻訳ブログです - 読んでくれてありがとう)



