お風呂場でふと頭に浮かんだこと。

 

幸せってなんだろな〜なんてぼんやり思いながらシャワーを浴びてた。

周りの人たちが恋愛で幸せになっていくのを横目に、私はずっと在宅で、PCとばっかり向き合って、こんな生活してたら人がいない生活に慣れちゃって。

他人と一緒に暮らすことなんてできるんだろうか、とか思ったり。

でも幸せにはなりたいし、とも思ったり。

 

最近あった、すごく身が捩れるほど胸を刺してきた出来事を思い返しながら、そんなことを思ってたんだけど。

 

周りの友達が、それぞれの恋人と仲良く楽しそうに過ごしてる中で、すごく疎外感と孤独感に押し潰されそうだった。というか押し潰されてた。周りに友達がいるのに、心がうまく開かなくなって。だんだんぎこちなくなって。壊れかけの機械みたいになって。でも必死に取り繕って。

 

あんまり思い出したくない苦い記憶がひっきりなしに頭の中に再生され続けて。

 

 

そんなことをシャワー浴びながら思ってると、どうやらその記憶と、昔の記憶が結びついたみたいで。急に思い出したことがあったの。

中学の時、従兄弟の家で遊んでる時だったと思うんだけど、突然涙が止まらなくなったことがあった。

本当に、我慢の閾値に達して、もう制御できないってなって、涙が溢れてきて。

 

何か傷つくことを言われたとかじゃなかったんだけど。

いとこたちがあまりにも幸せそうに見えてしまって。

自分の境遇と比べてしまって。

 

その時私は不登校で。そのことをずっと負い目に感じてて。

自分は学校にすら行けない、だめな人間だ、無価値な人間だって、ずっと思ってて。

でもみんなみたいに、純粋に、学校を楽しみたいって気持ちも同時にあって。

 

いつも楽しそうないとこ家族を見てると、そんな自分がものすごく惨めに思えたんだろうな。

どうして私は幸せじゃないんだろう。

どうして私は学校を楽しめていないんだろう。

どうして私は。

私は。

 

そんな風に、相対的に幸せの格差を感じ取ったあの記憶が思い出されてきたの。

 

鮮明に覚えてる。あの風景。

オレンジ色の照明で、茶色のフローリングで、いかにもあったかい家族の家って感じの家。

私が泣き出した途端、みんなの視線を一気に感じて、みんなの顔が硬直したのも感じてさ。

 

で、この記憶をお風呂で再体験して思ったの。

 

私はいつも、幸せを他人と比べていた。

 

学校に行って、みんなと同じ日常を過ごして幸せそうにしている従兄弟と、自分を比べていた。

比べて、自分はそうじゃないからって、不幸だって。

 

でもこれってさ、他人ベースで幸せとは何かを決めているだけなんじゃないかって、思って。

他人の幸せを元に幸せを定義していた。

つまり、他人が幸せそうにしていることが、求めるべき「幸せ」なんだって思ってたってことで。

 

わかりやすいけど。他人が何かを叶えていて、達成してて、幸せそうなら、その叶えられていることは「幸せ」だって。

 

でも、わかりやすい幸せに囚われて過ぎてた気がした。

自分の中にもっと、幸せを見出せるんじゃないかって。

自分だけの幸せを。

 

わかりやすい幸せももちろん幸せだけど。

でもそれが全てじゃないんだって。どうしても、見えやすくて、わかりやすいから、それが幸せのほぼ全部をしめてるように思っちゃうんだよね。

 

 

幸せなんて、天秤にかけるものじゃないのにね。

 

自分の中に、それを見つけ出さないといけないなって。

 

思った。