気付いたら、19歳だった。
 「気付いたら、18歳があと1日もなかった。」



こまった。お正月も、卒業しても、ブログにはのせられないほどの分量になってしまってまとまらなかった。そしたら今度は、振り返ったりする気持ちが降りてくる気配すら感じられないのだ。今は、すごくふわっと生きていたい。

「気付いたら、18歳があと1日もなかった。」とつけたタイトルも、気付けば5日、気付けば3日...という具合に更新された結果で、ついには過ぎていた。いや過ぎすぎている。


もう19歳なのだ。
今年の桜は、知らないうちにいつの間にか過ぎ去っていた。

18歳のいしぐろわこって、私にとっては一大イベントがけっこうあった。

ターニングポイントだった気がする。
これは、相も変わらず『説明しないと分からないと言うことは説明しても分からないということだ』というか、むしろいつものように説明すると、どんどん旋回してどこかへ飛び立ってしまうからやめておく。それじゃ、振り返りにはならないじゃないかと反論されたら頷くしかない気もするけど、やってみようと思う。



今年の石黒和己のスタンスは「好きなように生きること」。
なのでハイボイルド・ワンダーランドの「僕」のように生きたいと思っている。自己完結していると感じたら許してほしい。元々自己中な人間なので、良くも悪くも、結局自分で決めるし、独りよがりなのだ。
でも一つだけ重要なのは、世の中に対して斜めっているはずが、自分が斜めりすぎてしまわないようにバランスを考えたいと思っていることかな。だからSFC的言語を話すと「ポジティブシンキング」だっけ?自分のいる環境をポジティブに捉えること(問題を魅力と捉えなおす的な)、そしてSFCっぽく積極的に私もクリエイター側につこうとすることだ。


私が美大へ行かなかったのは、どうしたって先天的に優れた感覚やそれを表現する力は到底叶わないからだ。普通の人間だからね。そして、表現の反対側にきっといる批評家というの?老人めくこともそれなりに好きだ。でもつまんない。
そんなわけで、いっそ「よく分からない」というポジションを「石黒和己」としてしまえばいいやと思った。両側へ足を突っ込みながら、どっちつかずなポジションもきっといいことがあるだろうし、というよりそれしか今の私にはできない。
だから今年の目標に、両者の関係をもっと積極的に繋げることがあったりする。


そう思えるのは、平田オリザの『わかりあえないことから』で出会った言葉が決定的だった。
 —その批判は正しいと思うが、これが現実なのだ。だとすれば「そんなものは、慣れてしまえばいいではないか」と私は思う。せいぜい「慣れ」のレベルであって、人格などの問題ではない。...「二十歳過ぎたら、慣れも実力のうちなんだよ。」



私はもう、二十歳へ向かっている。
すごく個人的な幸せの羊膜に包まれていて、頭がいかれてるせいもあるかもしれないけれど、これまでだったら批判的に構えただろうことも、それも踏まえて面白いって思えるほどに、快適に時を過ごしているのは悪くない。


常に敏感に感じる器をもって、でも鈍感に受け入れられる人になりたい。
猪熊弦一郎の絵のようになりたい。
つまり「慣れ」つつ、劣化しないような人になること。



大学はスカッとしたところだ。
なんて自由なんだろうか。


これまでの環境は一言で言えないことが多すぎたんだ。それについては常日頃から「普通」になりたいと切望してきた。それが大学受験という壁をさらに強固にしてしまったし、一人疎外感を感じていた。選民意識があるみたいでほんとに嫌だったけど、ある程度そうやって自己の状況を肯定してやらないと生きられない部分もあった。
でも今は、「大学生」だ。
自分がやるしかないみたいだし、責任は私にきっちり突きつけられるであろう。
幸いにもSFCというのはすごく生きやすい空間だ。行きにくいけどね。



SFCでよかったと思います。
軸のない人間は、ここで存分に悩むことにします。