人の血が通わない過去の「偉人」の知識と論理と理論の原理原則で追及した「正しさ」のなかで疲弊しきって絶望に向かうだけである。さらに、それだけで満足している人々がいるのではないだろうか・・・あるいは当事者性の問題に自身の傷を投影して憎悪を膨らましている輩も多くいるだろう。それは当事者が先代の歴史性を引き受ける上でも起きることでもあるのだが、そのような行為を立場性を超えて、感情と論理と文脈だけで自己防衛に走るのみのネット引きこもりが多すぎる。もはやスマホもって脳内で「日帝打倒」と叫ぶことで安心だけを、連帯感だけを得ようとしていないか。確かに、具体的な何をなすべきかは不安でしかたがない。自分が犠牲になる運動など運動だと思っていない。気づいても本来、責任がないはずだと嘯き、当事者であるからとかまけている。このような状態を、その態度をさらに別の人々に伝播させていく無責任な病理的「罪」を犯している。
最近、特定秘密保護なんちゃらと世間は騒がしているが、知ることの権利はとても大切である。それとともに、知ることの責任と知ることによって蓄積される責任は、平面文脈上の薄っぺらいものであってはいけないし、歴史への系譜も先人たちの悔しい思いも経験も引き受けるなら、それ相応にそのことについてとことん知るべきではないか。知ることが責任であり、知ったことが多ければ多いほど、伝える責任は自然と増えるのではないかと思う。自分だけが目覚めた反差別の先鋭だと人に思わせておいて、自らは不安と絶望で、嘆くだけで、自らがその豊富な知識を人に伝えることをせず、自らがんじがらめにした批判性で、何を守り、何の不愉快さと嫌悪を再生産しているのか気付かないまま、死に急いでいるように、絶望に「甘んじ」ている。それともこのような批判と批評の運動がただの「ゲーム」であるようにやる気のない、冷笑すべきものとして、シニシズム(冷笑主義)に満足させたいだけではないだろうか。努力すればするほど、嗤うものばかりがいるようで、潰されることをあまりにもおそれているような・・・
私はここで、強く主張したい。立場性(ポジショナリティ)のなかでの責任よりも、知ることの責任と知っているものの責任の方が重いということを。その知ることができたきっかけこそが、何よりも環境と経験と人々との出会いというかけがえのない財産がなせる技であるからだ。本来ならそれをどう他者に伝えるのか、それが一番の責任ではないかと思う。それが運動ならなおさらだ。こんな無責任の再生産と都合のいい非責任の裁定(自分には責任がないと弁明すること)こそが、自らが知ることを含む批判性によって蓄積した権威であるということになぜ気付かないだろうか。これはミクロ(個々人)な問題でも、マクロ(中央、政府に訴えるような、その上で民衆に語りかけるような)な問題でも同じだろう。
伝え方を考えることで、ポジショナリティや当事者性をないがしろにしろという意味では決してない。歴史と系譜と個人の関係と過去の経験と事象と感覚を育てること含めて「知る」ことは重いことであるし、大切であると今一度思い返して、強く言いたかっただけである。そこで私の責任についてもう一度考えていきたい。これからのこと、これからの世代へ、どのように受け継いでもらいたいか、含めてその責任を。



