利休大居士は一人になって
道具を置き合わせられたとい言います。

終生このカネ割りを
疎かにしなかったのであると、
弟子の南坊宗啓は「南方録」に伝えています。


カネ割とは一定の長さを
等分割して生じる分割線
そのものをさしています。

台子なら天板と地板の横の長さ、
畳なら短辺の内両畳縁をのぞいた、
残りの部分の長さを
等分割して生じた分割線のことです。


「易経」には
茶事を行う場   ー  茶室は

もともと
天地陰陽を和合した空間、即ち一つの
小宇宙として創られた場に座して、
主客ともに「仙薬」の茶を喫する事は
まさに「天地人合一」なのである。
宇宙と人事の変化を相対する陰・陽
の消長によって示されている。
と記されています。




「易経」に示している
宇宙大自然の最高の理想の境涯は
天と地の和の中に人がいることです。

天地の和とは、即ち陰陽の調和のことです。

なぜ、茶室の台子や畳目にまで
三陽四陰の七つカネや
五陽六陰の十一カネなど道具を細部に
置かれる場所まで、決められてきた歴史が
あるのかと思う時に、
私は茶室が小宇宙空間としての法則の場であるという事を踏まえ考えてみました。




地球の公転軌道面である黄道面に
月の公転軌道面は5.1度傾いて軌道し、
それが月の位相や地球の潮汐が、
太陽と月の相対的な位置関係に
よって変化しています。

また水、金、地、火、木、土、天、海、明の
太陽系の八つの惑星が同じ平面を
同じ方向に公転している
という宇宙の原理とまったく同じ理念を、
茶室の中に具現化し、

茶の湯を行う者にまさに現世において
万物が呼応しながら昇華されている様を、
生きながらにして
曼荼羅の世界を体験させるべく
創られた法なのではないかと考えています。

してこれら道具の置き合わせの位置などは、
あくまで我々の「降魔成道」の
プロローグに過ぎず、

究極のカネ割りとは、
心のカネであり、

己自身の強さや弱さに真摯に向き合う姿、
また新たな明日へと
挑もうおうとする姿にこそ
実は真のカネ割りの姿があるのだと
私は考えています。

台子の点前手順ができるか
どうかの問題ではなく、

なぜその位置の決定なのか?

という根本的な所を
師匠から学ぶ事は大切ですね。