私は、私である。
赤ちゃんは、赤ちゃんである。
小学生は、小学生である。
中学生は、中学生である。
高校生は、高校生である。
大学生は、大学生である。
社会人は、社会人である。
その時々に、その時々の自分は、どんな存在なのかを定義づけ、自分の定義で生きる。
その定義が一般の定義と違うと思う人もいる。
それも、その人の定義である。
その定義が見つけきれなくて、自信を持てない人もいる。
でも、傍から見ると、傍から見る人の定義で見られてしまう。
私は、私である。
神は、神である。
仏は、仏である。
木々は、木々である。
木々も大樹になると、神として崇められる。
その時、木々は、木々であると大樹が思っていたら、
大樹も木々である。
大樹が崇められる事を受け入れていたら、
大樹は神である。
昔、宇佐神宮の末社で、天照大神の社があり、その横にしめ縄が巻かれている大樹がありました。
私は、神に仕える大樹さんから、パワーをいただこうと触ったら、
「無礼な」
という言葉が頭の中に飛び込んできました。
私は、慌てふためき、「ごめんなさい」と謝りました。
そんな体験をブログに書いています。
そう、その時の大樹は、神なのです。
ビビリな私は、後で当時の師匠に、こんな事が起きましたと報告すると、
「名前と住所を名乗ってから、力を分けていただきたいです」
と宣言してから触ればよかったのにと言われました。
話を元に戻しますが、
大樹も、神は神であると、思われているのでしょう。
人も生まれながらにして、神の要素、仏の要素を持っています。
いつか、神や仏になるのでしょうね。