今日は、分かる方には分かる事を書いてみます。


野球を好きな人がいます。


野球を嫌いな人がいます。


野球を知らない人がいます。


野球を知っている人がいます。


野球をやりたい人がいます。


野球をやりたくない人がいます。


野球は知っていて、やったこともあって、もうどっちでもいい人がいます。


野球は知っていて、やったことがあって、まだやりたい人がいます。


・・・


こんなパターンを書いていったらきりがないのですが、


野球を好きか嫌いかで見ている人は、野球にエネルギーを与えています。


野球を知らない人は、野球にエネルギーを与えません。与えられません。


野球を知っているけれど、やったこと無い人は、野球にエネルギーを与えているようで、それほど与えていません。意識の方向に因ります。


野球をやりたくない人は、野球にエネルギーを与えています。


野球を知っていて、やったこともあって、もうどっちでもいい人は、野球にエネルギーを与えることも、与えないこともできます。


今日重要なのは、


「野球を知っていて、やったこともあって、もうどっちでもいい人は、野球にエネルギーを与えることも、与えないこともできます。」


です。


野球を知らない人は、エネルギーを与えられませんね。


野球を知っている人は、ルールも知っているでしょうから、勝敗への共鳴など、野球を通した一体感などを経験されているのでしょう。


野球を知っていても、やったことが無い人は、エネルギーを与えることは、どうしても部分的になるでしょう。体感値が無いからです。


どちらかというと、野球をやっている人に興味があるのではないでしょうか。


野球を知っていて、やったことがあった方がもうどっちでもいいって言えるようになるって、どんな心境からなのかというと、


やはり挫折からなのだと思います。


もうどっちでもいいって、言えるようなるタイミングは様々で、


プロ野球の選手の人と、高校野球の人と、小学野球の人だからと言って、どのタイミングでも、もうどっちでもいいというのは起こります。


小学野球で、もうどっちでもいいと思った人が、大人になってから、子供が野球を始めたことによって、また野球を経験してみたくなったら、


野球そのものを経験する場合もありますし、立場を変えた野球を経験することもできます。


きっかけがあれば、野球にエネルギーを与えることもできるのです。


野球をプレーヤーとしてではなく、保護者の立場、あるいは、指導者として見るという経験も必要だと判断すれば、


野球にエネルギーを与える場合もあります。


子供が野球の練習や試合に行くので、お弁当を作ってあげたとします。


子供にお弁当を作った方が、野球を知らず、野球に勝ち負けやルールがあることも知らず、スポーツであることも知らなかったら、


美味しいお弁当を作ることや、学校に行くこと、子供の健康や安全、成長にはエネルギーを与えても、野球にエネルギーを与えることはしませんし、出来ません。


お弁当を作った方が野球はもうどっちでも良くて、子供の成長を願っている場合、

野球である必要がないなら、野球にエネルギーを与えているのではなく、子供の成長にエネルギーを与えています。

また、プロ野球選手と、高校野球、中学野球、小学野球だからといって、何を体験して、どう感じ、どう意識するかはそれぞれで違います。

小学生の野球で挫折を味わう人と、プロ野球選手で挫折を味わう人、立場や状況、本人への影響は違いますが、

挫折をテーマにした学びには変わりありません。

野球が嫌いになるか、好きだけど挫折したと捉えるかも違いますが、野球にエネルギーを与えていることには変わりありません。

その挫折に因り、野球は、もうどっちでもいいって思えた時に、野球にエネルギーを与えなくなることも可能になります。

野球をしてもしなくてもどちらでも良いのです。

野球に関心を持っても良いし、持たなくても、どちらでも良いのです。

野球を通して学んでも良いし、野球から学ばなくても、どちらでも良いのです。

もうどっちでもいいって、投げやりな言葉に聞こえますが、それは、意思を持って判断できる状況です。

お分かりになったでしょうか。

付け加えて書くと、これを悟るともいいます。

極めていく毎に悟りも違う悟りが出てきます。

もうどっちでもいいっての後にも、次から次に深い悟りが出てくることもあります。

 

野球とは違うものに進んでこれを経験するのが、一般的なのでしょうけれど、敢えて野球で書いてみました。