前回の続きで、国立市の

 

『谷保天満宮』。

 

御祭神 菅原道真公には

 

娘が数人いて、その中の

 

衍子(えんし)は

 

宇多天皇の女御に、

 

 

苅屋姫は、醍醐天皇の異母弟

 

斎世(ときよ)親王の

 

妻になっています。

 

 

菅原道真は、藤原時平の讒言により

 

大宰府へ左遷されましたが、

 

斎世親王と苅屋姫の婚姻は

 

左遷の理由の一つに

 

なったといいます。

 

 

醍醐天皇から下された、

 

道真公を右大臣から

 

大宰権帥に落とす宣命には、

 

「宇多上皇の心情を思いやらずに

 

醍醐天皇の廃立を計画し、

 

兄弟の間を裂こうとした」

 

ということが書かれていて、

 

 

兄弟の間を裂こうとした

 

というのは、

 

醍醐天皇の弟 斎世親王の妻は

 

苅屋姫で、道真公が後見して

 

いるので、斎世親王を擁立して

 

醍醐天皇の廃立を計画した

 

ということだそうです。

 

 

斎世親王と苅屋姫のことは

 

人形浄瑠璃や歌舞伎の作品

 

『菅原伝授手習鑑』のモデルにも

 

なっています。

 

 

『菅原伝授手習鑑』では

 

逢瀬を重ねていた二人は

 

追ってから逃げて

 

駆け落ちをするような

 

形になるそうですが、

 

 

現実では、二人の間に

 

子どもが一人いて、

 

斎世親王は16歳で出家し

 

父帝 宇多法皇がいた

 

京都の仁和寺に入ったそうです。

 

 

菅原道真公は、延喜三(903)年に

 

大宰府の地で薨去されました。

 

↑道真公の墓を築いて葬るために

 

轜車(喪の車)を引き出したとき

 

動かなくなった牛を表現したという

 

「座牛」の像。

 

 

谷保天満宮の御祭神 菅原道武公が

 

父君の薨去の報を悲しみ、

 

父の尊容を刻んで廟殿に鎮祀したのが

 

谷保天満宮の始まりだといいます。

 

 

…ブログが長くなってきたので

 

次回に持ち越します。

 

牛 牛 牛

 

 

白梅のような

 

白いネックレスを作りました。

 

乳白色でボタン形のガラスビーズと

 

白いライス形のキャッアイ(人工)を

 

使いました。

 

 

道明寺天満宮の

 

『天神縁起絵扇面貼交屏風』に

 

よると、道真公の子どもは23人

 

いるそうなので、

 

ライス型のキャッツアイを

 

23個入れました。

前回のブログ、松陰神社の

 

御祭神 吉田松陰は毛利藩の方で、

 

毛利氏の初代の父は大江氏で、

 

大江氏と菅原氏は御先祖が同じ

 

というつながりで、

 

 

菅原氏の方が御祭神の

 

『谷保(やぼ)天満宮』。

 

東京都国立市に鎮座しています。

 

 

御祭神は菅原道真公と菅原道武公。

 

谷保天満宮の御由緒によると

 

菅原道武公は菅原道真公の第三子で、

 

道真公が大宰府に左遷されたとき

 

道武公も武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷

 

(現在の国立市谷保)に

 

配流されたといいます。

 

 

菅原道武は、『尊卑文脈』

 

(南北朝時代から洞院家代々の人が

 

継続編纂した諸家の系図の集大成で、

 

源氏・平氏・橘氏・藤原氏、そのほか

 

主要な諸氏系譜を類別にまとめたもの)

 

には名前が載っていない方。

 

 

菅原道真には、夫人が複数いて

 

子どもも大勢いました。

 

 

道真公の左遷のときには

 

官途に就いていた息子たちも左遷され、

 

そのほかの家族も、京に残れた者と

 

地方に行かされた者とがいて

 

家族は離ればなれになったそうです。

 

 

家族については、

 

岩手県一関市に「菅公夫人の墓」が、

 

福岡県太宰府市に「隈麿の墓」と

 

「紅姫供養塔」があるほか、

 

 

長男の高視公が

 

高知県の「潮江天満宮」に、

 

 

次男または三男という景行公が

 

静岡県の「静岡天満宮」と

 

茨城県の「大生郷天満宮」に、

 

 

三男という兼茂公が

 

岐阜県の「飛騨天満宮」に、

 

 

四男または五男という淳茂公が

 

兵庫県の「曽根天満宮」と

 

神奈川県の「永谷天満宮」に、

 

 

八男という慶能君が

 

京都府の「生身天満宮」に、

 

 

23番目の子という福部童子が

 

山口県の古熊神社に、

 

 

何番目かは分かりませんが苅屋姫が

 

大阪府の「蹉跎神社」に

 

それぞれ伝承があります。

 

 

…ブログが長くなってきたので

 

次回に持ち越します。

 

 

牛しっぽ牛あたま 牛しっぽ牛あたま 牛しっぽ牛あたま

 

『北野天神縁起絵巻』には

 

道真公の左遷が決まった時、

 

道真邸「紅梅殿」で道真と子息たちが

 

盛りの紅梅を諸所から眺める風景が

 

描かれているそうなので、

 

紅梅のような赤色のビーズを使った

 

ネックレスを作りました。

 

 

絵巻について書かれた本に

 

「道真の男子四人が四方に流され」と

 

あったので、道真公を含め

 

5コの大きいクリスタルビーズを使い、

 

間にも小さめのクリスタルビーズを

 

入れました。

 

紐は、ナイロンコードを使いました。

前回のブログの続きで

 

世田谷区の『松陰神社』。

 

 

長州藩士 木戸孝允が寄進した鳥居。

吉田松陰は

 

江戸伝馬町牢屋敷で処刑され、

 

弟子たちによって小塚原の回向院に

 

埋葬されましたが、

 

その4年後の文久三(1863)年、

 

この地に改葬されました。

 

 

吉田松陰と他の烈士たちの墓所。


 

萩の人々は、当時

 

松下村塾の塾生を「乱民」と呼び、

 

異端者扱いしていたといいます。

 

 

近隣住民らは、

 

公然と幕府の施策を批判し

 

実力行使も辞さないという

 

姿勢をみせる吉田松陰らを恐れ、

 

塾生や、その家族は

 

村八分になりました。

 

 

明治維新後は、その功績が評価され

 

地位が回復したそうです。

 

明治十五(1882)年

 

お墓の近くに社を築き、

 

松陰神社が創建されました。

 

 

明治四十(1907)年には

 

萩にも松陰神社が創建されました。

 

 

「時代を先取りする先覚者にありがちな

 

評価の逆転」だという見方もあるそうで、

 

乱民、罪人から一気に神様になったから

 

「大逆転」したんだなと思いました神社

 

 

トラ トラ トラ

 

吉田松陰は

 

野山獄で夢を見て

 

自分のことを『二十一回猛士』と

 

呼ぶようになったそうです。

 

 

実家の杉家の「杉」の字を

 

バラバラにすると

 

十、八、彡(三)で、足すと「21」、

 

 

「吉田」の字をバラバラにすると

 

十、一、十 と 口、口で

 

数字を足し、口を組み合わせると

 

「21回」となり、

 

 

さらに「猛士」は自身の通称

 

「寅次郎」から、寅=虎で

 

虎は勇猛だから

 

「自分は二十一回の猛を行う士である」

 

と考えて、号を「二十一回猛士」に

 

決めたといいます。

 

 

21個の石でブレスレットを作りました。

レッドタイガーアイを18個と

 

赤めのうを3個使いました。

 

 

吉田松陰は

 

藩の許可を受けずに

 

東北へ遊学に行き(脱藩)、

 

意見書を藩主へ上申し、

 

外国密航を企てたという

 

三回大きなことを成したので

 

まだあと18回は奮い立つ

 

つもりだったそうです。

 

 

『タイガーアイ』

 

石ことば…洞察力

 

石の力…洞察力や決断力を養って

 

   物事を成功へと導く。

 

   仕事運、金運をアップさせる。

 

 

『アゲート(めのう)』

 

石ことば…成功

 

石の力…病気から身を守り

 

   長寿をもたらす。

 

    緊張をやわらげ、

 

   ストレスを軽減する。