前回のブログの続きで

 

東京都世田谷区の『松陰神社』。

 

 

境内に、たくさんの石燈籠が並んでいました。

毛利藩主の最後の嗣子だった

 

毛利元昭公や、松下村塾の門下生らが

 

奉献したものだそうです。

 

 

周防・長州国は、毛利氏が支配する前は

 

大内氏が守護大名でした。

 

 

大内氏は、推古天皇十九(611)年に

 

百済の聖明王の第三王子 琳聖太子らが

 

周防国(今の山口県防府市)に着岸し、

 

聖徳太子より周防国大内県を賜り

 

「多々良」を氏にしたことに

 

はじまるといいます。

 

 

そして、平安時代に

 

本拠としていた所が「大内」という

 

地名だったので、多々良氏から

 

大内氏になったそうです。

 

 

聖明王は百済の第26代の王で、

 

538年(一説には552年)に

 

日本に仏像と仏教経典を送った方(仏教伝来)。

 

 

聖明王の父親は武寧王(むねいおう)

 

といって、日本の加唐島(佐賀県唐津市)で

 

生まれたと伝わる方。

 

 

『日本書紀』には、雄略天皇五(461)年

 

百済から逃れてきた蓋鹵王(こうろおう)の

 

妻が、筑紫の各羅嶋(かからのしま[加唐島])

 

で嶋君(せまきし:後の百済の第25代の王

 

武寧王)を生み、嶋君は百済へと送られた

 

といったことが書かれているそうです。

 

 

『日本書紀』には

 

崇神天皇65(紀元前33)年に

 

朝鮮の任那(みまな)から

 

朝貢があったことをはじめに、

 

百済や新羅など、朝鮮半島の国との

 

交流や戦いのことが記されています。

 

 

朝鮮半島内で大きな戦があったときは

 

多くの方々が渡来し、再び朝鮮半島に戻ったり

 

そのまま帰化した方もいたといいます。

 

 

大内氏は、平安時代の終わりの源平合戦で

 

源氏側について平家追討に軍功をあげたり、

 

鎌倉時代中期の元寇にも参加するなどして、

 

勢力を増大させ、永享四(1432)年には

 

周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵しました。

 

 

朝鮮半島や明との貿易の窓口であった

 

筑前の博多港を確保して、綿や高麗人参、

 

仏教経典の集大成である「大蔵経」などを

 

輸入したことで、経済と文化の両面で

 

大きな利益を上げたほか、珍しい舶来品を

 

権力者への贈り物にして、立場を有利に

 

することが出来たといいます。

 

 

明で生産されていた綿織物や生糸、

 

陶磁器などは、日本だけでなく

 

朝鮮半島やヨーロッパでも人気でした。

 

 

15世紀末にはヨーロッパで

 

大航海時代がはじまり、

 

肉食中心のヨーロッパの人々は

 

香辛料を求めて、船でアフリカ大陸の

 

喜望峰を回り、インドへと向かいました。

 

 

欧州に敵対するイスラーム圏を通過しなくて

 

良くなったことは大きな利点だったといいます。

 

 

イギリスでは、1600年に

 

「東インド会社」が設立されます。

 

イギリスの東インド会社は

 

形の上ではエリザベス女王から

 

アジア貿易独占の許可を与えられた

 

勅許会社でしたが、後に植民地進出の

 

先鋒となりました。

 

 

吉田松陰(幼名 虎之助)が

 

生まれたのは天保元(1830)年。

 

 

そのころ、大陸では清王朝とイギリスと

 

イギリスの植民地だったインドとの間で

 

のちにアヘン戦争へとつながる

 

「三角貿易」が行われていました。

 

 

・・ブログが長くなってきたので

 

次回に持ち越します。

 

 

トラ トラ トラ

 

 

前回と同じく

 

「タイガーアイ」を使った

 

ブレスレット。

 

 

茶色いのが「タイガーアイ」。

 

グレーが「スモ―キークオーツ」。

 

黒は、袋に名前が書かれていなかった

 

多分「オニクス」だと思われる石です。

 

 

「オニクス」

 

石言葉…手中にある成功。

 

石の力…隠れた運動能力を引き出す。

 

   知性を引き出す。

 

   誘惑から逃れる。