chayaka*のハッピーアクセサリーときどきニット
前回のブログの続きですが、
西府駅前の御嶽塚の南には
府中崖線があり、
色々な植物や鳥が
見られるそうです。

府中崖線(西府崖線)のところに
階段があり、

崖線の下では、水が流れていました。

西府町の湧水も
東京都環境局の
東京の名湧水57選に
選ばれています。

平成二十一(2009)年に
西府駅は開業しましたが、
そのときに区画整理事業に伴い
崖線に道路が整備される計画が
持ち上がりました。
しかし地元の方たちの
働きかけにより、西府の崖線は
保全されたそうです。

さらに南の方に行くと
鎮座している
間嶋[島](まじま)神社。

御祭神は間島大神。

江戸時代、このあたりは
多摩川から引き入れる用水が
網目のように広がっていました。
多少の洪水ならば
安全に過ごせる場所だったそうで
四谷、間島(間嶋 あいじま)、
小野宮、中河原、下河原
といった集落ができ、
網目状の水路網が広がる
広大な水田のなかに、
集落が島のように点在して
いたといいます。
神社の境内に
石橋の供養塔がありました。

東京に、かつて架かっていた橋の
跡地を巡るのが好きな方の
本によると、「橋供養」は
古い橋を弔うときに
するのではなく、
架橋が終わったときに
橋を利用する人の安全と、
洪水で流されることがないよう
神仏の加護を得るため、
そして橋が末永く使われるように
という祈りを込めるために
行われるそうです。
間嶋神社周辺の
かつて橋が架かっていた場所には
石柱が建てられていました。


このあたりも
尾張徳川家のお鷹場だった
ところになります。
鷹狩は、紀元前千年代から
蒙古・中国・インド・トルキスタンの
広大な平野で行われ、
トルキスタン人によって
ペルシャに伝えられ、
ヨーロッパにも伝わりました。
そして紀元前400年頃、
ヨーロッパの貴族や聖職者らに
よって広められ、
13世紀には最盛期になりました。
ヨーロッパではハヤブサで
狩りをしていたそうです。
日本では、仏教の興隆により
殺生が禁じられたため
鷹狩は衰退しましたが
平安時代には復活し
朝廷を中心に公家の遊びとして
栄えました。
中世以降は武士の間でも広まり
娯楽としてだけでなく
武芸鍛錬の役割も加わりました。
江戸時代になると
軍陣の演習や民情視察をかねて
多くの大名によって行われました。
五代将軍 徳川綱吉の
生類憐みの政策により
鷹場は一時返納されましたが
八代将軍 徳川吉宗により
再編されました。
そして幕末の慶応三(1867)年に
お鷹場は廃止されました。

間嶋神社から、さらに南に行くと
多摩川に出ます。
対岸は多摩市で、
京王線 聖蹟桜ヶ丘駅があります。
聖蹟桜ヶ丘駅のあたりは
明治時代に天皇が行幸され、
兎狩りや鮎漁の天覧を
楽しまれた土地で、
その地域は大正六(1917)年まで
“御遊狩場”に指定されていたそうです。
多摩市は多摩丘陵の
北端部に位置していて
かつては水田や薪炭林や
畑が広がる土地でした。
昭和三十年代ごろ
東京は深刻な住宅難になり、
無秩序な開発を防ぎ
居住環境の良い宅地や
住宅を供給するため、
昭和四十(1965)年に
多摩ニュータウンの計画が
決定され、多摩丘陵の
東西14km、
南北2~3kmの地域が
開発されました。

国分寺市の武蔵国分寺
・国分尼寺跡の北側から
府中市の多摩川までの
辺りには、日本を代表
するような企業の
大きな社屋や工場が
いくつかあり
以前の土地が、畑や水田
だったから、大きな工場を
建てるための広い土地を
確保しやすかったのかなと
思いました。
あらためて
武蔵国分寺・国分尼寺跡の土地が
開発されず史跡として
残されているのは
貴重なことなんだなと
思いました。

お鷹場の場所だったので
鳥の羽を使ったネックレスを
作りました。

茶色い羽を使い
紐はナイロンコードにしました。

古墳時代の鷹狩の鷹には
尾に鈴が付けられていたので
鈴のような丸いメタルビーズを
合わせました。
前回のブログの続きですが、
新田義貞の像を
分倍河原駅から見ると
少し見下ろす形になります。

分倍河原駅は、府中崖線が
東西に通っているそうで、
像のある南側は
土地が低くなっています。
分倍河原駅からひとつ西の
JR南武線 西府駅の前には
古墳があります。

『御嶽塚(みたけづか)』といって
江戸時代は信仰の対象として
祀られていました。
直径約25メートルの墳丘と
その周囲に幅約7メートルの溝が
めぐる円墳だそうです。
西府駅のあたりでは
御嶽塚のほかにも13基の古墳が
確認されていて、
墳丘に配された円筒埴輪や
石室に収められた大刀や
耳飾などが出土しています。

このあたりも尾張徳川家の
お鷹場でしたが、日本での
「鷹狩」のはじまりは
古墳時代にあたる
4世紀末~5世紀前半頃に
なります。
『日本書紀』の
第十六代 仁徳天皇紀に
天皇は依網屯倉(よさみのみやけ)
から珍しい鳥を献上され、
酒君(さけのきみ)に見せて
何の鳥が尋ねると、
「この鳥の類は、百済に
たくさんいます。
飼いならせばよく人に従い、
また速く飛んで諸々の鳥を
捕えます。百済ではこの鳥を
倶知(くち)といいます」
と申し上げた[これは今の
鷹である]」
といった記述があり、
仁徳天皇は酒君に
鷹を飼い馴らすよう命じて
百舌鳥野(大阪府堺市北区・
西区地域)へ行幸され、
飼い馴らした鷹で狩りをして
多数の雉を獲ることが
できたといいます。
仁徳天皇は、酒君に鷹を授け
飼育・訓練・鷹狩を任せる
「鷹甘部(たかかいべ)」を
作ったそうで、このころ
鷹匠も生まれたと
考えられています。
新田氏の荘園があった
群馬県太田市の
オクマン山古墳からは、
「鷹匠」の埴輪が出土しています。
古代、群馬県のあたりは
毛野(「けの」または「けぬ」)
という豪族がいて、
仁徳天皇の御代に
上毛野君(かみつけののきみ)と
下毛野君(しもつけののきみ)に
分けられました。
『古事記』によると
上毛野君と下毛野君の祖は
第十代 崇神天皇の皇子、
豊木入日子命(とよきいりびこのみこと)
(『日本書紀』では「豊城入彦命」)
になるそうです。
上毛野君は上野国
(こうずけのくに 今の群馬県)を
下毛野君は下野国
(しもつけのくに 今の栃木県)を
それぞれ拠点としました。
上毛野君は、馬の生産と飼育に成功し
巨大な勢力になったといいます。
かつて馬は日本列島に生息して
いませんでしたが、
古墳時代に朝鮮半島から伝わり
近畿地方を中心に飼育が
はじまりました。
その後、甲斐国や上野国など
東日本でも飼育され
とくに上野国は
浅間山・榛名山・赤城山の
3つの火山があり、火山灰の原野は
雑草が生い茂り、馬を育てる“牧”に
向いていました。
また、利根川の河川を馬を逃さない
柵として利用できたといいます。
馬は軍事・農耕・物流を
飛躍的に進化させ、
馬の大量生産に成功した上野毛君は
大きな力を持ちました。
しかし6世紀前半頃
武蔵国で有力豪族の
笠原使主(かさはらのおみ)と
小杵(おぎ)との間で
国造の地位を巡る
豪族同士の戦いが起き、
小杵は上毛野君に
援助を求めましたが
大和政権は笠原使主を国造とし
小杵を誅伐しました。
このことがきっかけで
上毛野君は大和政権に
屯倉の設置を強いられたと
いいます。
屯倉(みやけ)とは
大和政権が直接支配をする土地
(直轄地)のことで、
地方豪族にとっては
自治権が奪われることになり
上毛野君は勢力をそがれて
衰退していきました。
さらに、弘仁九(818)年に
関東地方で起きた大地震や
天仁元(1108)年に起きた
浅間山の大噴火などで
上野国の土地は荒廃しました。
平安時代には
武を持って朝廷に仕える官人たちが
国司として関東に赴任するようになり、
清和源氏の流れを汲む
源義家は、奥州(東北地方)で
起きた内乱「後三年の役」を平定し、
東国に基盤を築きました。
源義家の子である源義国は
関東で官僚の仕事をしながら
新田地方の開発を行い、
義国の息子 義重が
新田の荘(現在の群馬県太田市)
を開き、新田氏の祖となりました。
…ブログが長くなったので
次回に持ち越します。

古墳から埴輪が
出土しているので、
埴輪の色のようなネックレスを
作りました。

アベンチュリンクオーツと、
同じような色の皮ひもを
使いました。

『アベンチュリンクオーツ』
石ことば…恋のチャンス
石の力…洞察力を高め
物事の本質を見抜く力を
与えてくれる。
恋人や家族との関係を
円満にする。
前回のブログの続きですが、
お鷹の道・真姿の池湧水群がある
武蔵国分寺・国分尼寺跡の
南の方に位置する、
JR南武線と京王線
分倍河原駅の前に
新田義貞の像があります。

新田義貞は徳川家康の
遠い親戚になるそうです。
徳川家康の前の姓は「松平」で
松平の初代は松平親氏といって、
松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)
を訪れて松平郷の領主 在原氏の
娘婿になったという方。
松平親氏について
その時代に書かれた
確実な資料はなく、
源氏の流れを汲む新田氏と
系譜がつながるように
家康や家臣たちが
こじつけたという見方が
強いですが、
地元の伝承などによると
親氏は松平郷に来る前は
「旅の僧」であったり、
「旅人」であったり、
「先代が南北朝の時代に
南朝方として活躍したものの、
親氏の代になると北朝の猛勢により
徳川郷(現在の群馬県太田市尾島町)を
追われた」ともいわれています。
親氏は世良田氏の九代目で
世良田氏の祖は新田義季になります。
新田義季は
新田氏の祖である新田義重の
四男で、父から領地を与えられ
上野国新田郡世良田荘徳川郷に
移り住み、徳川(または得川)と
称しました。
その後、世良田とも称したようです。
徳川家康は「わが遠祖は
上野国新田の一族 徳川氏である」
とし、徳川郷を祖先の地としました。
新田義貞は、
新田氏の八代目になります。
…ブログが長くなってきたので
次回に持ち越します。

「松平」とは
“松が茂っていた比較的平らな土地”
を意味するそうなので、
松の木の色に似た
ネックレスを作りました。

緑色のマラカイトと
茶色いビーズを使いました。

『マラカイト』
石ことば…危険を伴う愛情
石の力…癒し効果があり、穏やかな
気持ちにしてくれる。
高ぶった感情を鎮めてくれる。

