前回のブログの続きで

 

国立市の「谷保天満宮」。

 

駐車場の横に「第六天神社」が

 

ありました。

こちらには、

 

「面足尊(おもたるのみこと)」と

 

「煌根尊(かしこねのみこと)」という

 

男女の神が祀られているそうです。

 

 

『日本書紀』では、

 

天地開闢(てんちかいびゃく

 

…世界のはじめ)のとき

 

はじめに三柱の男神と

 

四柱の男女一組の神

 

(男女分けると八柱)が

 

誕生しました。

 

 

面足尊と煌根尊は

 

このとき、六番目に

 

誕生したそうです。

 

 

また、そのあと

 

日本の国生みを行う

 

伊弉諾尊(イザナギノミコト)と

 

伊弉冉尊(イザナミノミコト)が

 

誕生しました。

 

 

駐車場の奥に、梅林がありました。

梅の木は350本ほど

 

あるそうです。

 

 

『和魂漢才碑』

「和魂漢才」とは

 

日本固有の精神と

 

中国伝来の漢字の素養を

 

併せ持つことで、

 

学者の理想とされました。

 

 

菅原道真公は、

 

日本古来の心と

 

伝来の新しい文化や学問の

 

両方を兼ね備えることが

 

必要であると説いたそうです。

 

 

『有栖川宮威仁親王殿下

 

台臨記念』の石碑。

明治41(1908)年に

 

有栖川宮威仁親王殿下の

 

呼びかけで、日本で初めて

 

ガソリン自動車(タクリー号)による

 

「遠乗会」(ドライブツアー)が

 

行われました。

 

新宿から甲州街道を進んで

 

立川まで行き、谷保天満宮の

 

梅林で昼食をとって、

 

日本の自動車の将来について

 

語り合われたそうです。

 

拝殿で昇殿参拝し、

 

帰途は事故も車の故障も無く

 

戻れたそうで、谷保天満宮は

 

「交通安全発祥の地」と

 

言われています。

 

 

初詣には、多くの人が

 

訪れるそうです。

 

 

配流により、菅原道武公と

 

お付きの人たちが

 

京からこの地へ来たときは

 

とても大変だったと思うけど、

 

地元の方々と良い関係を

 

築けたから、多くの人が訪れ

 

信仰の篤い天満宮に

 

なったのかなと思いました。

 

おうし座 おうし座 おうし座

 

 

延喜二十三(923)年、

 

故 従二位大宰権帥 菅原道真を

 

本官の右大臣に復し、併せて

 

位を一階上げるという

 

詔が出されました。

 

 

今年(2023)は

 

道真公が右大臣に復してから

 

1100年になるそうなので、

 

1100個のビーズを使って

 

ネックレスを作りました。

花梅には、同じ枝に

 

紅梅と白梅が両方咲く品種が

 

あるそうなので、

 

赤色と白色を混ぜました。

 

ビーズは紅白ランダムに入れました。

前回のブログの続きで、

 

国立市の「谷保天満宮」。

 

 

日新稲荷神社は、谷保天満宮の

 

発祥の地だそうです。

 

 

「谷保(やほ・やぼ)」の

 

地名については諸説あり、

 

 

地元の有力武士、立川入道宗成が

 

館を建てて、この地を

 

野堡(やほ:砦の意)と呼んだと

 

伝わるほか、

 

「谷」は「ヤッ」で湿地帯の意味、

 

「保」は平安時代の行政区画の一つで

 

現在の「字(あざ)」にあたるもの

 

という説もあります。

 

日新稲荷神社の辺りは

 

もともと中州で「天神島」と

 

呼ばれていました。

 

 

養和元(1181)年に

 

津戸三郎為守が

 

「吾が館より丑寅の隅にうつせ」

 

という霊夢を見て、天満宮を

 

現在の地に遷座したそうです。

 

もと天満宮の地だからか、

 

梅の木がありました。

 

 

このあたりは、多摩川の沖積地

 

(河川によって運ばれた

 

礫・砂・泥などが堆積して

 

平野になったもの)で、

 

「谷保田圃(やほたんぼ)」といって

 

かつては米どころだったそうです。

 

谷保天満宮と日野バイパスの

 

間あたりに、田んぼと思われる

 

ところがありました。

 

もとは天満宮でしたが、

 

五穀豊穣のご利益がある

 

「稲荷神社」にしたのかなと

 

思いました。

 

社殿の前で拝むと、

 

その延長線上に谷保天満宮の

 

鎮座地があります。

 

 

現在の谷保天満宮の境内にも

 

稲荷社がありました。

こちらの社殿は

 

立川崖線上にあるので、

 

崖の上から本殿のあたりを

 

見ることができました。

 

谷保天満宮の拝殿。

梅の御神紋が

 

色々な所にありました。

 

 

狛犬

 

 

牛の像

 

ニワトリ

 

 

 

祠の横の張り紙に、

「ニワトリは優しく見守り下さい」と

 

ありました。
 

 

…ブログが長くなってきたので

 

次回に持ち越します。

 

 

鳥 鳥 鳥

 

 

境内にいたニワトリのような色の

 

ピアスを作りました。

 

チェコビーズのもの。

 

クリスタルビーズのもの。

 

2種類作りました。

ニワトリが可愛かったです。

 

前回の続きで、国立市の

 

『谷保天満宮』。

参道は、緩い傾斜のあと

 

急な階段になっていました。

 

国立市は、富士箱根火山帯からの

 

火山灰が降り積もったところへ、

 

多摩川の水の流れにより浸食されて

 

出来た河岸段丘地で、3本の崖線

 

(国分寺崖線・立川崖線・青柳崖線)が

 

あり、それぞれの崖線からは

 

所どころ地下水が湧き出ています。

 

 

谷保天満宮は、立川崖線と

 

青柳崖線が交わる所で、

 

境内に湧水がありました。

 

 

境内に鎮座する厳島神社。

 

社殿の奥が立川崖線、

 

向かって左側が

 

青柳崖線になるそうです。

 

弁天池は湧水で満たされていました。

 

 

境内の「常盤の清水」。

むかしは、付近の方たちの

 

井戸としても使われたそうです。

 

 

谷保天満宮の南西にある

 

「城山(じょうやま)」。

城山は青柳段丘崖の

 

中心に位置します。

 

 

城山は「三田氏館跡」という

 

東京都指定旧跡になっています。

 

 

多摩地域は鎌倉時代から戦国時代まで

 

平将門の後裔(子孫)と称した

 

「三田氏」という地方豪族が

 

支配していたそうです。

 

 

また、古い文献には

 

「城山」の記述のところに

 

「津戸三郎為守の住居跡地」

 

といった記述もあるそうです。

 

 

くにたち図書館の地域資料によると、

 

谷保天満宮の御祭神

 

菅原道武は、この地に

 

配流されたとき

 

津戸常陸掾平貞盛

 

(つのとひたちのじょう

 

たいらのさだもり)の庇護に

 

あったと伝わります。

 

 

道武公は津戸貞盛の娘を娶って、

 

子をもうけ、その子が津戸家の

 

養子になり、その子から六代目が

 

津戸三郎為守だそうです。

 

 

津戸三郎為守については

 

鎌倉時代の武士で、

 

菅原孝標の孫 津戸為光の子

 

という記述もありました。

 

 

菅原孝標(たかすえ)は、

 

上総国と常陸国の国司を

 

務めた方で、娘は

 

『更級日記』の作者。

 

 

菅原道真について書かれた

 

本によると、菅原孝標は

 

菅原道真の長男 高視の

 

曾孫になるそうです。

 

 

津戸三郎為守は

 

菅原道真の子孫ですが、

 

道武の系譜なのか、

 

高視の系譜なのか、

 

婚姻や養子縁組などで

 

両方の系譜になっているのか

 

よく分かりませんでした。

 

「神明社」がありました。

 

城山は、東京都環境局の

 

保全地域にも指定されています。

 

看板は、株式会社ヤクルト本社から

 

寄贈されていました。

 

城山のすぐ近くに、

 

ヤクルト中央研究所があります。

 

 

ヤクルト中央研究所の側の

 

日野バイパスを谷保方面に進み、

 

「青果市場東」の信号から

 

野猿街道(やえんかいどう)に入り、

 

日新町二丁目の信号を曲がった所に

 

鎮座する、「日新稲荷神社」。

こちらは、谷保天満宮発祥の地に

 

なるそうです。

 

 

…ブログが長くなってきたので

 

次回に持ち越します。

 

牛しっぽ牛からだ牛あたま 牛しっぽ牛からだ牛あたま 牛しっぽ牛からだ牛あたま

 

紅梅のような

 

赤色のネックレスを

 

作りました。

 

ボタン形のガラスビーズと

 

多面カットのチェコビーズを

 

使いました。

 

 

菅原道真を研究された方の本の

 

系図によると、道真公の

 

子供の数が18人だったので、

 

ボタン形の大きいガラスビーズを

 

18コ入れようとしたのですが、

 

重くなったので軽いチェコビーズを

 

18コ入れました。