人間が生まれてくるということは
そのなかに「創造の種子」を
もっている、ということですね。
その種子から芽がのびてゆく
ときに、その人の属する集団の
もつ価値観と一致する部分の多い
人は、それを伸ばしてゆくのが
容易でしょう。
しかし、その場合の、その人の
創造性は他に見えにくいし、
つい安易になって、全体の傾向に
合わせてしまって、そのなかにある
自分の創造性を見出すことを
怠るかも知れない。
これに反して、自分の「創造の種子」が、
その人の属する集団、つまり、家庭、地域、
社会、国家など傾向と異なる場合は、
なかなか困難が大きい。
生きてゆくためには、その人は一応は
集団に適応しなくてはならない。
時には、自分の「創造の種子」を強く
圧迫することによって、それを成し遂げ、
本人もそれでよいと思っているときさえ
ある。
そのようなときに、その人は神経症の症状を
はじめ、いろいろな「困難」や「苦悩」に出会って、
精神科をおとずれる。
もちろん、その人たちの
願いは、早くその苦しみから
逃れたい、ということである。
それに対しても応じようとしつつ、
一方では、心理療法家は
その人の「創造の種子」が発芽し、
伸びてゆくのを援助したい、という
気持ちももっている。 これは
実は非常に難しいことである。
創造の種子を発芽させて
ゆくことは、その人にとって、その
人の所属している集団、家族とか
社会とかに反する生き方をする
ことになってくるから、それは
むしろ苦しみを倍加させること
にもなる。
ここに簡単に書いてしまったことを
実際に行うには、戦ったり妥協したり、
方向転換をしてみたり、といろいろな
ことが生じ、その人なりの「創造の
作品」ができあがってくる。
ここで言う「作品」とは、 その人の
人生そのものなのである。
このような方向を見出し、自らの
力で創造活動を続けられると
いうことになったときに、その人と
われわれは別れることに
なるが、それまでは数年、
あるいは、十年を超える
年月を要するときもある。
この経過のなかで既に述べた
ように、芸術作品を生み出して
ゆき、それが一般的にも評価
されるようなものになるときもある。
しかし、私が大切にしているのは、
そのようなことも含めて、 その人の
生き方全体の創造であり、「”私が”生きた」
と言えるような人生をつくり出すこと
なのである。
創造には犠牲がつきもので、そこには
何らかの犠牲が生じるだろう。
そのことも明確に意識し、そのような
犠牲の責任者としての自覚をもって、
「私が生きた」と言えることが必要で
ある。
「”私が”生きた」という実感をもった
とき、それはいつ誰によっても
奪われることのないものであることが
明らかで、「創造」の実感も伴う
はずである。
それが明確なものになれば
なるほど一般的な社会的評価は
それほど気にならなくなるし、それは
もっともっと普遍的な存在の
一部としての責任を果たしたと
いう自己評価につながって
ゆくのだとおもう。
( ^^) _旦~~
すべての人が創造性を持っている
河合隼雄 著者



