噎せかえる信繁に手拭いを渡しながら、きりは話を続けた。
「汚ないなー。もう。当たり前でしょう。こういった話は侍女のほうが早く伝わりますよ」
何を今更といったふうにきりは話す。
「良かったですねー。これで源次郎様も茶々様から離れられて。
お仕事に専念できるようになるんじゃないですか?」
ねぇ?ときりに話かけられても、信繁はすぐに返答できなかった。
「源次郎様?聞いてます?」
訝しげに、きりの声音が変わっても頭の中には蔵での光景が甦る。
『死』は怖くないと言いながらも、捕らわれ抜け出せずにいる姿。
思わず、守りたいと感じてしまった自分がいた。それは、紛れもない事実で。。。
だからといって、当然のことながらそんなことを考えることすら、恐れ多い存在。
ガシガシっと、源次郎は頭を掻いた。
(ああっ!どうしたいんだ!私はっ)
「源次郎さー」
「源次郎はいるかしら?」
きりの声をかきけすように、凛とした声が響いた。
いま、ここにいるはずもない人物の声。
声の方向に目をやると、そこに佇むのは話題に上がっていた人物で。
いま、心に居座る、かの人。
「「茶々様っ!?」」
信繁ときりは慌てて平服した。
「堅苦しいのは嫌だわ。面を上げて。
源次郎と話がしたいの」
茶々は誰もが心を奪われるような、柔らかい笑み浮かべていた。
信繁はきりを下がらせ、茶々を室内へと招き入れる。
「急に訪れてごめんなさいね。お邪魔だったかしら?」
くすくすと茶々の笑い声が降ってくる。
「いえ、そんなことは……」
まさか、頭で思い描いていた人物が現れて見透かされた思いでいるとも言えず。
ばつが悪そうに、言葉少なく答える信繁に肯定と捉えたのか、まあっと更に笑みを深くする。
「仲良きことは美しきかな。なんだか、あてられてしまったわね」
「茶々様、お戯れを……」
くすくす笑う茶々に、困ったように信繁は答えた。
「お加減はいかがですか?申し訳ありませんでした。辛い思いをさせてしまいました」
元はといえば茶々が言い出したことで、
信繁は巻き込まれた形になったのだが…………。
「情けないところを見せてしまいましたね。あの時のことは忘れなさい」
頭(かぶり)を振り、穏やかな笑みを残したまま答える凛とした物言いは、ある種の拒絶のように感じた。それが、信繁の心を苛立たせた。
「前に言ったわね。私の大事な人はみんな、居なくなるのよ。いいえ、違うわね。死んでいく。みんな、呆気なく。この世に存在していなかったかのように。すべて。消えるの」
「あの武具庫で思い知ったわ。私がやらなければならないことを」
遠くを見るように話す茶々は、まるで何かに捕らわれているかのようで……
「……恐れながら、茶々様。茶々様や秀吉様を守るは我々家臣の勤めでございます。
今以上に茶々様の大事な方が亡くなられることはありません。ですから、ご安心なさってくださいっ!」
思わず力がこもった語尾に、茶々の肩が上がった。そして、茶々の瞳が信繁を捉えた。
「源次郎……」
「茶々様は我々がお守りしますから」
尚も力強く答える信繁の言葉に茶々の心は震えた。
「では……貴方は?」
「……はっ?今、なんと申され……」
そう返ってくるとは思わず、聞き返してしまった信繁に、今度は茶々が声を荒げた。
「ですから!私の大事な人の中には貴方もいるのです。貴方のことは誰が守ってくれるのですか」
先程の何かに捕らわれていた茶々ではなく、顔を真っ赤にして、しっかりと信繁を見つめている茶々がそこにいた。
「はははっ!」
信繁は思わず声に出して笑ってしまった。
そして、苛ついていた心が鎮まり温かくなるのを感じた。
「何が可笑しいのです。私は真剣に申しているのですよ!源次郎っ!?」
失礼しますっと茶々の手入れの行き届いた華奢な手を、信繁の大きな手が包み込んだ。
「茶々様の大事な人の中に、この信繁も入っているのですね」
言葉にするだけで、心が軽くなる。己がこんなにも単純な男だとは思わなかった。
「源次郎……ええそうよ。だから貴方のことは誰が守ってくれるの?」
突然握られた手に先程まで見つめていた瞳を反らしながら、二人にしか聞こえない声で茶々は呟いた。
そんな茶々を見つめながら、信繁は力強く告げた。
「私はもう守られているのです。貴女に」
「私に?」
茶々の瞳に己が映っているのが見えた。
「茶々様は大事な人にこの信繁も入ってるとおっしゃった……それはとても名誉なことです」
こんに嬉しいことはない。
茶々が息を飲む。
信繁はそのまま続けた。
「茶々様や秀吉様のためならば、命を捨てることは怖くありません。ですが、お二人をこの豊臣を守るためには生きていなければなりません」
「なんだか矛盾しているわ」
「はははっ。そうですね」
「でも、なんとなく分かるわ。
私が生きていることが貴方を守っていることになるのですね」
茶々の言葉に信繁は頷き、握っている手に力を込めた。
茶々の必死に耐えているような表情が和らいだ。
「源次郎は優しいわ。貴方のその温かさに甘えたくなってしまう」
決心が鈍るじゃないの……茶々の中に言葉にできない思いが通りすぎる。
「……甘えてください」
信繁はそっと茶々を引き寄せた。
ふわっと薫るのは陽の香り。
茶々の香か、はたまた己の香か。
信繁の頭を過ったのは一瞬で。
支線が絡み合い、はじめからそうであったかのように、自然と二人の影が重なった。