『磨礪(まれい)はまさに百煉の金の如くすべし、急就(きゅうしゅう)は邃養(すいよう)にあらず』

―磨礪当如百煉之金、急就者非邃養―

 

 

 <菜根譚>

自分を鍛えるときには、金を精錬するように、じっくりと時間をかけなければならない。速成では、どうしても底が浅くなる、という意味だ。

 

わかりやすいのは技術の習得である。先日、庭師の仕事ぶりを拝見する機会があったが、若い弟子のほうは素人目にもそれとわかる未熟さであったが、親方の仕事ぶりには、その手順といい身のこなしといい、寸分のムダもなかった。さすがに年季の入った職人はちがうと、あらためて感じさせられたことだった。

 

まして技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、格別のむずかしさがあるにちがいない。十年、二十年どころか、おそらく一生の仕事になるであろう。しかし、それをやった人間とやらなかった人間のちがいは、おのずから風格に現れてくる。顔ひとつとっても、それをやった人間は 「いい顔」 になってくるし、やらなかった人間は 「ふやけた顔」 になってしまう。恐ろしいものだ。

 

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  守屋 洋 (著)
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