ホリちゃんです。今日は、フランスの北、ノルマンディー地方の主要都市、ルーアンをいっしょに見ていきましょう。パリを出発し、パリでいちどお別れしたセーヌ川は、再び、ゆったりした流れとなってルーアンで姿を現わします。700Km以上あるフランスでも3番目に長い川ですね。ところで、この町の古い家並みを見た時、ドイツのロマンチック街道諸都市と似た雰囲気を感じるんですね。

こうした木骨組の家々は、ノルマンディーの特徴ですが、ロマンチック街道や、ドイツの影響を受けた独仏国境の町、例えば、シュトラスブールなどでもみられる景観です。

旧市街広場も、このように整然とした中世的雰囲気をもっています。旧市街広場とルーアンの大聖堂は歩行者天国のメインストリート1本で結ばれています。その中間に「黄金の大時計」があることから、「大時計通り」とも呼ばれています。


ルーアンの大聖堂は、ノートルダム教会とも呼ばれ、パリのノートルダム寺院はじめ、フランス主要都市の大聖堂と同レベルです。カトリック教国、フランスの国民にとって聖母マリア崇拝はとても大切です。聖母マリアに捧げる、その町NO・1の大聖堂は大司教直轄の一番由緒ある教会で、カテドラル(=大聖堂=ノートルダム寺院)と云います。ルーアンの大聖堂は、「睡蓮」の連作で有名な印象派の画家、クロード・モネが、刻々と変化するファサードの光と色調の推移を時系列の連作で描いてから、特に訪れる人が増える名所となりました。

ルーアンの町の起源は、中世時代にさかのぼります。北欧から温暖な気候と豊かな食料を求めて、毎年ヴァイキング船の船団を組んで略奪行為にやって来るノルマン人(北方のゲルマン民族)に手を焼いたフランス国王が、フランス国内に一定の領土を与えるのを条件に、略奪行為をやめさせるという妥協政策の結果、生まれたのがノルマンディー公国です。その後、ノルマンディー地方の主要都市として発展し、セーヌ川の水運は、経済や物流の大動脈でした。カルチャー度の高い町でもあり、古典劇の権威、イギリスでいえばシェークスピアに匹敵するコルネイユ、フランス文学史上、不朽の名作「ボヴァりー夫人」を書いた作家のフロベールを生んだ町であることは忘れられません。しかし、フランスの救世主、祖国フランスを救った国民的英雄であり、火刑台に散った「悲劇の乙女」ジャンヌ・ダルクとこの町との因縁めいた、悲しい結びつきは知らずにはすまされないものでしょう。

ジャンヌ・ダルクはもともと、ノルマンディーとは何の関係もない、ロワールのお城とも何の関係もない、ドン・レミ村の出身です。ドイツ寄りのロレーヌ地方とシャンペンの原産地シャンパーニュ地方の境目です。そこで、ジャンヌは、糸を紡いだり、農作業を手伝ったりして暮らす平凡な娘でした。

それが、何故か13歳のときに、「フランスを救え!」という神の声をきき、16歳でそれまで想像すらしなかった、武器をとる「戦闘」を経験し、英仏100年戦争で降伏寸前に出てきて、イギリスからフランスを救い、シャルル王太子のために、「献身的」を通り越した自己犠牲をはらい、国王の地位につけるため、戴冠式まで出席した伝説の人でもあり、実在の人物です。今、フランスの主要都市の目抜き通りには、ジャンヌ・ダルクの騎馬像があるところがたくさんあります。世界遺産修道院の町、モン・サン・ミッシェルのメインストリートにも、町民の教会の入口にジャンヌの像が見られます。

結果として、国王に裏切られ、ルーアンの町で捕えられ、陰謀にはめられて、裁判の結果「魔女」であると断定され、当時、「魔女」であると断定されたものが例外なく火あぶりの刑に処せられたように、ジャンヌもルーアンの旧市街広場で火刑に処せられたのです。

旧市街広場は市の立ったマルシェであり、商人たちの活気ある取り引きの場であり、一般市民にとっても、社交場であり、それなりに重みのある生活空間だったはずです。しかし、その広場にそびえ立つ十字架は「処刑現場」の象徴なのです。。もっとも、ジャンヌの死後、復権裁判が行われ有罪判決は無効とされ、ヴァチカンも聖者に認定し、聖人に列せられたジャンヌは、この地で殉教し、昇天し、イエスと同じように「救世主」として国民的英雄となったのです。

20世紀になってから、フランス国民は、聖者に列せられ、国民的英雄となったジャンヌのために記念教会を建てたのです。イエスの贖罪のように、「処刑の象徴」である十字架と、「復権の象徴」である記念教会が同じ旧市街広場で鼻を突き合わせているのも、ジャンヌ・ダルクが生涯を閉じ、昇天した町、ルーアンの象徴なのでしょう。

ぜひ1度、ホリデイツアーでフランスのバスツアーへお出かけになり、ルーアンの町で、「悲劇のヒロイン」でもあり、「国民的英雄」と評価されているジャンヌの息吹に触れてみませんか?
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こうした木骨組の家々は、ノルマンディーの特徴ですが、ロマンチック街道や、ドイツの影響を受けた独仏国境の町、例えば、シュトラスブールなどでもみられる景観です。

旧市街広場も、このように整然とした中世的雰囲気をもっています。旧市街広場とルーアンの大聖堂は歩行者天国のメインストリート1本で結ばれています。その中間に「黄金の大時計」があることから、「大時計通り」とも呼ばれています。


ルーアンの大聖堂は、ノートルダム教会とも呼ばれ、パリのノートルダム寺院はじめ、フランス主要都市の大聖堂と同レベルです。カトリック教国、フランスの国民にとって聖母マリア崇拝はとても大切です。聖母マリアに捧げる、その町NO・1の大聖堂は大司教直轄の一番由緒ある教会で、カテドラル(=大聖堂=ノートルダム寺院)と云います。ルーアンの大聖堂は、「睡蓮」の連作で有名な印象派の画家、クロード・モネが、刻々と変化するファサードの光と色調の推移を時系列の連作で描いてから、特に訪れる人が増える名所となりました。

ルーアンの町の起源は、中世時代にさかのぼります。北欧から温暖な気候と豊かな食料を求めて、毎年ヴァイキング船の船団を組んで略奪行為にやって来るノルマン人(北方のゲルマン民族)に手を焼いたフランス国王が、フランス国内に一定の領土を与えるのを条件に、略奪行為をやめさせるという妥協政策の結果、生まれたのがノルマンディー公国です。その後、ノルマンディー地方の主要都市として発展し、セーヌ川の水運は、経済や物流の大動脈でした。カルチャー度の高い町でもあり、古典劇の権威、イギリスでいえばシェークスピアに匹敵するコルネイユ、フランス文学史上、不朽の名作「ボヴァりー夫人」を書いた作家のフロベールを生んだ町であることは忘れられません。しかし、フランスの救世主、祖国フランスを救った国民的英雄であり、火刑台に散った「悲劇の乙女」ジャンヌ・ダルクとこの町との因縁めいた、悲しい結びつきは知らずにはすまされないものでしょう。

ジャンヌ・ダルクはもともと、ノルマンディーとは何の関係もない、ロワールのお城とも何の関係もない、ドン・レミ村の出身です。ドイツ寄りのロレーヌ地方とシャンペンの原産地シャンパーニュ地方の境目です。そこで、ジャンヌは、糸を紡いだり、農作業を手伝ったりして暮らす平凡な娘でした。

それが、何故か13歳のときに、「フランスを救え!」という神の声をきき、16歳でそれまで想像すらしなかった、武器をとる「戦闘」を経験し、英仏100年戦争で降伏寸前に出てきて、イギリスからフランスを救い、シャルル王太子のために、「献身的」を通り越した自己犠牲をはらい、国王の地位につけるため、戴冠式まで出席した伝説の人でもあり、実在の人物です。今、フランスの主要都市の目抜き通りには、ジャンヌ・ダルクの騎馬像があるところがたくさんあります。世界遺産修道院の町、モン・サン・ミッシェルのメインストリートにも、町民の教会の入口にジャンヌの像が見られます。

結果として、国王に裏切られ、ルーアンの町で捕えられ、陰謀にはめられて、裁判の結果「魔女」であると断定され、当時、「魔女」であると断定されたものが例外なく火あぶりの刑に処せられたように、ジャンヌもルーアンの旧市街広場で火刑に処せられたのです。

旧市街広場は市の立ったマルシェであり、商人たちの活気ある取り引きの場であり、一般市民にとっても、社交場であり、それなりに重みのある生活空間だったはずです。しかし、その広場にそびえ立つ十字架は「処刑現場」の象徴なのです。。もっとも、ジャンヌの死後、復権裁判が行われ有罪判決は無効とされ、ヴァチカンも聖者に認定し、聖人に列せられたジャンヌは、この地で殉教し、昇天し、イエスと同じように「救世主」として国民的英雄となったのです。

20世紀になってから、フランス国民は、聖者に列せられ、国民的英雄となったジャンヌのために記念教会を建てたのです。イエスの贖罪のように、「処刑の象徴」である十字架と、「復権の象徴」である記念教会が同じ旧市街広場で鼻を突き合わせているのも、ジャンヌ・ダルクが生涯を閉じ、昇天した町、ルーアンの象徴なのでしょう。

ぜひ1度、ホリデイツアーでフランスのバスツアーへお出かけになり、ルーアンの町で、「悲劇のヒロイン」でもあり、「国民的英雄」と評価されているジャンヌの息吹に触れてみませんか?
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