神奈川県立歴史博物館で今開催している「勝坂縄文展」に本日行ってきました。
縄文土器は地域や時期によってデザイン(って言っていいのかなw)の歴史があります。
似たようなデザイン(というと大雑把すぎますが)のグループに考古学者が名前をつけているのですが、
その一つが勝坂式土器です。
関東や中部地方などに主に分布している縄文中期中葉(約5000年~5500年前)の土器。
私はこの勝坂式土器のデザインがとても好きなんです。
小説なんかの超古代遺跡なんかにありそうな(そういうのは読まないのですが)
そんな、ミステリアスなthe遺跡感というかw
神秘的でその洗練されていてとても魅力的です。
丁寧に器表が磨かれていたり金雲母がキラキラしているのを見るとずっと眺めていたくなります。
5000年も前の遺物という事を差し引いても
現代芸術家の作品だとしても
その美しさに感動を覚える土器です。
あの岡本太郎も虜にしたんですから。
今回の展示では岡本太郎の事も取り上げていて、
彼が撮影した土器と、その写真、また写真と同じアングルでカメラが設置してあって
彼が見たようにレンズから土器を見る事が出来るようにしてありました。
岡本太郎と縄文土器。
彼の視点はとても興味深いです。
以下「」内岡本太郎の言葉。展示図録より。
岡本太朗が1951年に初めて縄文土器を東京国立博物館で見てどれほどの衝撃を受けたのか。
「とくに爛熟したこの文化の中期の美観のすさまじさは、息がつまるようです。つねづね芸術の本質は超自然的な激しさだと言って、いやったらしさを主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みです。」
岡本太郎と同じレベルの芸術眼なんて絶対に持っていないのに「分かる!!」って言いたくなる程共感できる気がします。(気のせいですがw)
彼はただ単に縄文土器を、過去を賞賛していただけではないようです。
そこから私達が学んで今にいかせなければ意味がないと考えていたそうです。
「縄文土器がどんなにすばらしいとしても、過去のものです。われわれが今日の現実に直面して、それ以上にはげしくたくましく生き、その表情を芸術のうえに打ち出すのでなければ、なんの意味もないのです。」
そして私がなんともぐっときたのが以下の言葉。
「古いものをカサにきて、現実を侮辱するなんて、これくらい非伝統的であり、人間として卑怯なことはありません。」
これってやってしまいがちですよね。
昔は良かった。
よく聞きます。
昔が良かったのは良いんです、多分。
現在をそれでただ否定するだけなのが駄目なんですよね。
未来志向であれ。
って事かな、きっと。