本日は、連れの幼馴染・ゆきうさぎさんのお誕生日。
はぴはぴばーすで~♪
ン十年前、生まれてきてくれて感謝。
さあ、ウルトラの父もお祝いを…とか思うたら、見切れたわっ!
たまたまやってきた車両に、なんでかウルトラマンが描かれてたんですよね。
何の宣伝カーだったのだろう。
都電荒川線も広告パッケージ車両が多く走っておりまして、なかなか色とりどり。
バスの場合、真正面だけはそのバス会社のカラーのままにしていることが多いですが、この荒川線は全体的に広告色に変えちゃってます。
結局、サンシャイン前の停留場についておきながら、サンシャイン60がどれだかわかっていないままの二人。
だめじゃんvv
逆に近すぎて、手前のビル群に埋もれてたりするんですよね。
比べればそこらのビルと高さがすごく違うのですが、遠近法でよくわからない、というか目の錯覚もすごいです。
そんな風に、今はサンシャインシティの最寄り駅となっている東池袋四丁目停留所ですが、最初は大正14年に水久保停留場という名前で開業したそうな。
王子電気軌道大塚線というのが、さいしょの所属路線だったそうな。
王子電気軌道というのは、いくつか路線を持っていたのですね。
昭和14年には近くに東京市電気局池袋線という路線の駅、日出町(ひのでちょう)二丁目停留場なるものができて、水久保停留場も同じ名前に改称したそうな。
そのあと昭和17年に王子電気軌道が東京市に事業譲渡し、日出町二丁目停留場は市電池袋線と早稲田線の停留場となります。
戦時中に運営中止になる路線もあり、早稲田線も一時期休止となりますが、戦後復活。
昭和42年に、現在の東池袋四丁目に改称したそうな。
昭和44年に名称が市電から都電になっていた池袋線が廃止になり、早稲田線の実の駅となり、昭和49年に、あらたに2路線をくっつけてできた都電荒川線の駅となり、現在に至ります。
東京の道路には最盛期の昭和30年代、都営だけで40の路面電車の運行系統があったそうで、もちろん日本最大の規模でした。
だから東京のお年寄りの昔話には都電が出てくることもあります。
今はこの荒川線一つだけ。
その荒川線ですが、ここから先は、道を割くようにフェンスがあったり、よくわからない構造。
まだ工事現場なのだろうか?
いったん、こちら側の道が途切れたので、とりあえず踏切を渡ってみる。
踏切を渡ったら、あったのはまたまたほっそい道。
こちらがわもフェンスで区切られていて、線路との間が広いです。
いったい何なのであろう?
ちなみにこのあたりは、停留所名の通り、東池袋四丁目・・・から、少し歩いたからちょっとは離れたかな?
池袋は東京23区の主要都市のひとつですが、私自身はちゃんと歩くのはこの時が初めてでした。
池袋駅からサンシャインシティまでの間くらいしか歩いたことがなかったのです。
しかも、以前に荒川線を一人で歩いた時には、住宅街ラビリンスにはまったまま、先ほどの東池袋四丁目を知らずにすっ飛ばしてしまったりしたのです。
あの時は、ブログもない完全自己満足だったから、一駅すっ飛ばしても「まあいっか」で終わりにしちゃったのですが、今はそうはいかぬ。
皆様にお伝えすると決めた以上は、できる限り忠実に・・・と思ってはおります。
時々ポカしてますが、多少は笑って許して♪
そんなわけで結果的に始めて歩く東池袋の住宅街の線路沿い。
そこにこんな張り紙がいっぱいあってびっくりだ~。
線路沿いのほうからは裏側ですが、反対側に入り口のある居酒屋か何からしい。
こっちがわにまでメニュー表を張り付けて、宣伝でしょうか?
商売熱心なのは、よいことですね。
インパクトあるし。
お、時給もなかなか。。。
そのメニューだのを張ってあるスチール物置みたいなのの上に、こんなものもあってびっくり。
右あ古いクーラーボックスか何かのようですが、左の2台のテレビが、やけに景色がはっきり写っていてびっくり。
使わなくなったブラウン管の処理に困ってとりあえず置いてある、という雰囲気でしたが、やけにその画面にはっきりと目の前の景色が映っています。
ブラウン管ってそういうものでしたっけ?
そのまま線路沿いの道は閉鎖状態となり、仕方なく別の道へ。
アパート以外にも、一戸建てで三階建てがちらほらあるのも都会の下町クオリティ。
行動に面してすぐに建物の玄関があるのも 都会の下町らしい。
塀とか門とか作るスペースないですからなあ。
ほぼ当てずっぽうで住宅街をうろうろ。
あとで地図を見ますと、線路の左側に行った方がよかったかもしれない。
なにせ、数十メートル西にサンシャインシティの敷地があったのです。
景色的には、その横を通った方がよかったかも。
やっぱりプリント地図がないと、ダメですなあ…。反省。
ただ、実体験として理解できたのが、この東京23区の中でのこのあたり、北西部の住宅街のわかりずらさ、行き止まりの多さです。
東京都だったか国だったか、この23区北西部当たりの区に対して、防災上の逃げ道の少なさから、対策を求めるといった指示が出ていたように思います。
逃げ込んだ先に行き止まりが多くて、逃げ切れないで惨事になりそうな場所が多いから、うまく抜けられるような構造を考えないといけなかったような。
私の住んでいる墨田区やその近辺の23区東部は関東大震災の被害の復興時に区画整理をして、避難しやすい、通り抜けしやすい路地などの構造に結構なっています。
碁盤目状の道がまさにそれ。
でもこの豊島区やその周辺は比較的関東大震災の被害は少ない方で、むしろ東部の人がずいぶん多く避難してきた場所だそうな。
それで、昔ながらの住宅密集地の道のまま、というところも多かったようです。
それでもお上からのおふれもあったことだし、だいぶ変化はあったんじゃないかなあ??どうなんだろう?
