線路を歩く危険~三河島事故 後編。テーマについて、そして今回の架線事故について、鉄道関係者の皆様やかつてのことを知っていらっしゃる人は因果を感じたことでしょう。このブログでも2014年12月14日(日)に記事にしている桜木町事故という列車事故があります。詳細はそちらを読んでいただきたいのですが、つい先日に起きた事故と、奇しくも現場が同じ、桜木町。事故の内容も似ています。過去の桜木町事故も切れた架線が走行する車両の屋根に擦れて火花が散り、車両の屋根に引火して大惨事になりました。現在の事故は幸い、架線に火花は散ったけれど、引火せず火事にはならずに済みました。昔は粗悪で燃えやすい塗料や材質(木)も使われていたのですが、現在は燃えにくい素材で頑丈に作られた車体ですから良かったです。しかし少々の設定の違いはあれど、因果が巡ったのでしょうか?さらに、実は桜木町事故を取り上げたときに続けて書こうと思ったまま放置していた題材が、今日のタイトルの三河島事故です。これもまた因縁を感じる事故でして、今書かずにどうする!というわけです、三河島事故は1962年、昭和37年の5月3日夜9時37分に起きました。事故の種類としては多重衝突事故になります。当時は国鉄だった、常磐線三河島駅の構内で発生した、国鉄戦後五大事故の一つです。三河島(みかわしま)駅は東京都荒川区にありまして、細かく書くと長くなるので端折りますと、まず貨物列車が停止信号を行き過ぎて脱線。この時、この貨物車は行き過ぎた為に他の車両とぶつかる危険を避けるために安全側線(あんぜんそくせん)という、いわば待避所のような線路に進んだのですが、先頭車と2両目が下り本線上に飛び出した形になりました。その直後に三河島駅を出た下り電車がその貨物車に衝突。電車の先頭車と2両目が、今度は上り本線上に飛び出しました。この時、電車から乗客が手動でドアを開けて大勢線路上に出てしまったのです。衝突から7分後、今度は上り線がやってきて線路上にいた乗客多数をはね、上り本線上に停止していた下り電車の先頭車と衝突。この衝撃で電車の一部が車両が原形をとどめず粉砕され、さらに一部は築堤下に転落しました。結果、死者160人、負傷者296人の大惨事。この事故の悲劇の原因のひとつが、乗客がそれぞれの判断で線路上に降りてしまったというものです。自動停止装置もまだなかった時代、無線連絡も今ほど高性能ではなく、しかも夜。信号も人が手動で動かす時代に、連絡系統のミスも重なりました。駅からは数百メートル離れていたそうで、駅員の目視では状況がつかめなかったとも言います。新月で暗かったので、信号係も直接現場に行かないと状況を把握できなかったとも。ただ、貨物列車が失敗し、下り電車が衝突した時点ではまだ死者どころか重傷者もいなかったそうです。そして実はあの過去の桜木町事故の時の教訓を生かしたはずが裏目に出ました。桜木町事故の時、すでに車両には緊急時に乗客が自力でドアを開けられる「非常用ドアコック」があったそうです。しかし位置などがわかりにくく、だれも使えなかった。なのでそれ以降の車両は判りやすいように整備されていたので、この三河島事故の時は乗客たちはドアを開けられたのでした。もちろんこの状況だと、脱線した車両にいた人は結果的にあとから来た電車が衝突した際にダメだった可能性は高いでしょう。でも、むやみに線路に出たことで、そして上り線を歩いてしまったがために死ななくていい大勢が死んでしまった。これも事実。この結果、自動列車停止装置(ATS)の計画が急ピッチで進み、国鉄では昭和41年までに一応の整備を完了したそうです。信号等の整備も進みました。また、機関士などが列車防護の処置を怠ったなどで裁判で有罪判決が出ました。三河島駅の北東にある淨正寺に観音像が建立され、今も献花が続けられています。さらに、国鉄はプロ野球球団を持っていたのですが、その国鉄スワローズをこの事故をきっかけに売却しました。この時はサンケイグループに売ったそうですが、現在のヤクルトスワローズですよ。「ある機関士」という、この事故の影響から国鉄の安全性を宣伝する記録映画がつくられました。さらにさらに、この事故で悪評がでたと問題になり、三河島町という地名が無くなりました。そして、国鉄時代からJRに至るまで、線路内の人の立ち入りや事故が発生したら、該当線だけではなく、全ての圏内の列車が一時停止するようになりました。♪ 喝采 ちあきなおみ