5月11日。
母から電話があり


じいちゃん 余命3ヶ月

末期の肺がん

と。




寝耳に水とは
まさにこのこと。







知らせを聞いてすぐ
撮ったフォトウェディング。



6月14日。

じいちゃんへ写真を届けに新潟へ。

酸素 1.25ℓ
Spo2 98%
体重激減


いつもの特等席で笑うじいちゃん。

さりげなく飲んでる薬を聞いたら
想像以上にキツイやつだった。

特等席に座るじいちゃんを見るのは
この日が最後となる。



7月1日。
じいちゃん入院。

本人は治ると信じていた。



7月24日。

緩和ケア病棟へ移ることになる。
もう食事は摂れなくなっていた。


7月26日。

新潟へ向かう両親から
じいちゃんが危ないと連絡が入る。

緩和病棟への移動は白紙に。



私は一人で駆けつける。


酸素 10ℓ
Spo2 90%




親戚や友人などが次々やってくる。

じいちゃんはその光景に驚き笑い
そして発作を繰り返す。







じいちゃんは、最期まで
余命宣告を知らなかった。



でも、
頭がクリアだった彼には
全てが分かっていたのかもしれない。







21時をまわり、
病室から全員がいなくなると
パニック発作を繰り返すようになる。



急いで両親と私が病院へ戻る。

じいちゃんは両手にミトンをされていた。





ミトンを外してもらい、
そのまま私と母が泊まり込むことに。

母は簡易ベッドで休んで待機。
私が徹夜で看ることにした。




22時を回ると発作が頻回になる。

モルヒネ注射の感覚が30分おきまで短くなる。


残った生命力でもがき苦しみ
『難儀…』
『寝たい…』
と声を絞り出すじいちゃん。






7月27日。


2時。
大きな発作が来る。

モルヒネの点滴に変更。


今まで何人も看取ってきた私でも
こんなにキツイ薬は見たことがなかった。


この頃には

酸素 10ℓ
Spo2 80~60%
四肢冷感


ぐったりしている。




4時。

また大きな発作が起こる。

看護師から
『これ以上単位を上げると
    意識が戻らなくなる
    可能性があります』
と。



かなり悩んだが、
じいちゃんに声を掛けると反応有り。
様子を見ることに。




4時30分。
チアノーゼ出現。

Spo2測定不能。
声かけには返答あり。


母を起こし
かなり危険な状態であることを伝える。


1時間後、私の父と
じいちゃんの内縁の妻、
新ばあちゃんな娘夫婦が駆けつける。


じいちゃんはギリギリ返事ができる状態。


間に合った。





ここで私と母は
仮眠のため一度退室する。





15時。

心電図もろもろの機械が付けられる。

意識混濁
反応(+
BP   (-)
KT    38.2








16時3分。

心肺停止。


と同時に

口が開き 目が開き
涙を流しながら新ばあちゃんを見つめた。






最期の最期まで
じいちゃんはかっこ良かった。