世界の原理は「道理の因果」と「思惑」である。 | 『ネトウヨ』=ネットにウヨウヨ居る日本人

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No Game No Life - The Kings Plan (Official Soundtrack)

 

 

さて、ご無沙汰しております。

久しぶりに書きたいことを書きますよ。

(とは言えこの原稿、

 実は2022年12月時点で書いてるんですけどね。)

 

やりたい放題書いてますが、よろしければどうぞ。


「道理の因果」とはまっすぐで長い鉄の棒。
スタートとゴールがあり、それを一直線に結んでいる。
スタート地点が原因であり、「因」。
ゴール地点が結果であり、「果」。
その本来のまっすぐ一直線な道筋が「道理」。

ただそれだけだと、全く変化が無く
一通りしか経路が無くて味気がないので
「思惑」で外力を加えて鉄の棒をしならせて、
本来とは違うところを通過させる経路をたどらせる。

しかし、「思惑」を入れて
「道理の因果」をしならせればしならせるほど、
「道理の因果の復元力」がしならせた分だけ発生する。
ゆえに道理の因果は最終的には、

基本的にまっすぐに戻る。

闇の勢力の一件は、「思惑」が過ぎて、
「道理の因果」の鉄の棒を曲げすぎているようだ。
しかし、「道理の因果」の鉄の棒は
復元力に上限が無く、塑性変形も起きない。
この鉄の棒は折れることもなく、
しなりの力を無限に貯めこむことができる。
結果、いつかは思惑の外力が崩れた時、
「復元力」で一気に元に戻る。

現状、闇の勢力は
鉄の棒を必死に押してきたようだが、
どうやら2022/12/07(日本時間)時点で、
これ以上力押しでは

びくとも動かない地点まで来てしまったようだ。

押して押して押してきた結果、
彼らの押せる限界と同じだけの

「復元力」が発生する地点まで来てしまったようだ。

こうなれば、押している連中は大怪我か死ぬしかない。
一人でも体勢がぐらつくか逃げ出すかすれば
押す力が減って、復元力が押し返してきてしまい、
更に体制が崩れることになり、押す力がさらに減る。
そして、恐怖に駆られて

体勢が崩れたり、逃げ出したりすれば
更に復元の事態は加速的に進んでしまう。

結果最終的には、鉄の棒を押していた連中は、
全員、強烈な復元力によって
凄まじい力で「しなり」を受けて襲ってくる鉄の棒によって
全身を強く強打するしかなくなるだろう。

2人のお笑い芸人が

ゴムひもの両端をそれぞれ口にはさみ、
距離を遠ざけたのちに片方が口を開けるだけで、
もう一人の口に向かって

ゴムひもの復元力が一気に襲い掛かる。

では、人間の体よりもよほど巨大な鉄の棒を
思惑に駆られた者どもが、人力や重機や機械の力で
無理やり捻じ曲げていたところの力が
「復元力」となって一気に解き放たれて
彼らのもとに襲い掛かってきたとしたらどうなるか?

最早ここにきて、結末は極まった。

だからこそ、道理を知る者は、
「道理の因果」の鉄の棒を曲げずに
そのままの特質のまま使う事で
力押ししない生き方を選択してきた。
それが一番無理が無く、成立がしやすいからだ。

「道理の因果」の鉄の棒を扱うには、
変数要素が8つある。
最初の7つは、いわゆる国際単位系(SI)の
長さ(メートル)
質量(キログラム)
時間(秒)
電流(アンペア)
熱温度(ケルビン)

物質量(モル)l
光度(カンデラ)
である。

つまり、時間ですら、
「道理の因果」の棒を扱うための
変数の一つでしかない。

8つ目の変数要素が「思惑」である。
しかしこれは、鉄の棒を無理やり曲げるだけなので
使えば使うほど「道理の因果の復元力」によって
打撃を食らい、怪我をし、場合によっては致命傷となる。

この世は「道理の因果」と「思惑」でできている。
「思惑」など、最小限で済むに越したことはない。
「道理の因果」の鉄の棒の性質そのままに用いて
暮らしを営むことができれば、それが何よりではないか。

「目的意識を持とう」という日本語がある。
これこそ、思惑というものが恣意的な意志であることを示す。
当初事実しか存在しなかった場所に、

新たな展開や目的を迎えたいという

「意志」を持ち込んでくるのだから。

 

人間が意志を持つこと自体は否定しないが、

それが欲を生みひずみを生むし、
願いを生んでしまい、

願いがかなわない人間を苦しめることになる。
 

仮に強引に「思惑」を大量に持ち込んで

「道理の因果」の鉄の棒を思いのままに

どんどん捻じ曲げたとしても

どこかで「増し続ける復元力」とのせめぎあいの限界に達し、

わずかでも体制が崩れた瞬間に

積み上げてきた「思惑」の分だけ

同じ量の「復元力」が襲い掛かってきて、

全ては無に帰してしまう。
 

故に、「思惑」なぞ、なしで過ごせるならそれが一番良いし

できるだけ少ない形で過ごせるようにするのが望ましい。

周囲の事物の特質をよく観察し、

それが本当に「道理の因果」であるのなら

本質に沿った使い道を活用するように、

策をあらかじめ練っておくのが一番良いだろう。


一番のポイントは、周囲の事物に適応してしまう前に、

まずその事物が「道理の因果」なのか

「思惑」なのかを見定めることを最初に行うべきである。

それを怠るとかえって適応の努力が

害悪になってしまうと言う事だろう。
 

問題なのは、日本人の適応力がすごすぎるために、

周囲にあるものすべてを「道理の因果」だと納得してしまい、

受け入れてしまう事だと思う。

結局何年かすれば、適応して過ごしやすくしてしまうために、

NOを言わずに適応の努力をしてしまうのだと思う。
 
仮に周囲から与えられる条件が、
純粋な「道理の因果」や、「道理の因果」に少しだけの

「思惑」を加えた程度のものであるなら、まあそれもわかる。
 
しかし、中身の95%が明らかに「思惑」であり、
表面の5%だけを「道理の因果」のように

見せかけたものですら受け入れるのは、
もはや服従の奴隷としか言いようがない。
 
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
目の前のものが「思惑」なのか
「道理の因果」なのかを見定める事をできない者に

適応力がありすぎるのは、
適応力がなさすぎるのと同じ程度に良くないようだ。


No game No life OST NO GAME NO LIFE -Soundtrack Original