Most Beauty(1) | Woke Up In the Beautiful World

Woke Up In the Beautiful World

女優・モデル・音楽…美しいものは世界を救う!!
主に海外モデルを中心に紹介します。

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インタビューなどからクリスティのモデルの歴史を振り返ってみました。それぞれの時代のインタビューから引っ張ってるのですが、当時から率直な物言いは変わらないようですね。


1969年1月、クリスティー・ターリントンはカリフォルニア州のダンヴィルでエルサルバドル人の母親とアメリカ人の父親のもと、三姉妹の次女として生まれ、クリスティが10歳になると一家はフロリダへ引っ越した。

『ボーカラトーンの近くで、今まで住んでいた所ともまた違った良い郊外の町だったわ。だけど残忍な警察のせいで暴力が生まれてしまって、人種的暴動や夜間外出禁止令が出てたりしていたの。そこはキューバ人やニカラグア人やエルサルバドル人って、まだ戦争が続いている所から人々が来る、ヒスパニック系の巨大なコミュニティでもあったし、毎日キューバからはマリエル難民が来てた。でもママはそういう物事に対して曖昧な態度でいたから、それによって私達姉妹は自分たちはどこに属しているんだろうって疑問を抱いたわ。私達の文化って?とね。10歳で私は思ったの。あぁ、きっとスペイン系であることはクールなことじゃないのね…、って』

しかし彼女は後に《アメリカ女性の理想の顔》となり、全世界の誰もが羨む女性になるのであった。
14歳のとき、姉のケリーと農場で乗馬しているところに地元のフォトグラファーが写真を撮らせてくれないかと尋ねてきたのだ。そのフォトグラファーは二人に『意地悪そうな顔をして』と注文をつけた。しかしファッションに関心がなく、母親が無理矢理お洒落させなくてはいけないほどで、ファッション雑誌も全く読まなかったクリスティは『彼は何を言ってるの?なんでそんなことしなきゃいけないの?』という有り様だった。

フォトグラファーは母親に話をつけ、クリスティーは母親を連れ添いそのフォトグラファーのスタジオへ行った。『壁に何枚か写真が貼られていたの。ヌードの。嘘でしょ!って思ったわ』
しかしフォトグラファーはクリスティにモデル事務所とは何かを教え、『聞いたことがあるのは<Ford>だけだった』ために<Ford>傘下の事務所へ行くことにした。

『ママは興奮してたでしょうね。テスト撮影のために新しい服を買ってくれるほどだったもの。それに、ただの遊び程度のためにあれほど投資するとは思えなかった』

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Christy with her parents
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<Ford>社長アイリーン・フォードと、NYのタウンハウスにて。


15歳になろうという1983年の終わり、父親が心臓発作を起こしたのをきっかけに一家はサンフランシスコへ戻ることになった。
『1時間で100ドルも!びっくりしたわ』
クリスティは学校が終わると地下鉄に乗り込んで地元のデパートやカタログの仕事をするようになった。しかしモデルでいるとき以外の彼女は、“優等生”のイメージとは異なっていたようだ。
『都落ちしたような感じだったわ。父は飛行機に乗れなくなって惨めだった。私達みんながひどい状態だった』。モデルの仕事がない日はパンクキッズを引き連れてバークレーに出掛けてはドラッグもやった。一時期、三姉妹は家出をしてサンフランシスコの路上で何週間も生活したことがあったほどだった。
『今こうやって生きていてラッキーだと思うわ。楽しかったけどね。危険だと感じたことはなかったの。だけどモデル業が私を救ってくれたのよ』

1984年の夏には<Ford>からの令で母親とともに観光を兼ねてパリへ向かったが、もらった仕事はささやかなものであった。

『ちょうどその頃フランス版Vogueの表紙にリンダが出たのを覚えてるわ』

しかしパリにいたのはリンダだけではなく、シンディ・クロフォードやステファニー・シーモアも時を同じくしてその場所にいたのだ。このとき初めてステファニーと出会い、友達になったという。

『学校ではモデルだからといってクールなわけじゃなかった』が、1985年の夏にはロンドンへ送られ、そこでちょうどモデルを始めたばかりのナオミと出会った。そしてNYへ向かったクリスティは<Ford>の社長アイリーン・フォードのタウンハウスへ泊まり、雑誌やフォトグラファーへの売り込みに行くようになった。そしてサンフランシスコへ帰る前日、クリスティを見たVogueのキャスティングディレクターがアーサー・エルゴートのオーディションへ送ってくれた。
『すっごく魅力的だったわ。その大きくて美しいスタジオの中でアーサーはシェリル・ティーグスを撮ってたの。オペラが流れている中でみんなはシャンパンを飲んでたわ。それで彼は私の写真をフィルム一本分も撮ってくれたの。階段を下りていって私のブッカーに電話してみたら、もう1週間分の予約が入ってるって言うのよ。すごく興奮しちゃった』
クリスティはその時にエディターに渡されたスタジオの住所のメモとアーサーに撮ってもらった初めての写真を、今でも大切に持っているという。

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When she was 17 years old. 86年、17歳のころ。


新学期には学校へ戻ったが、Vogueからは連絡が絶えなかった。
『地元ではパンクロックな友達と遊んでたし、ファッションとは言えない服装、いつも黒づくめの服を着ていたの。だから友達にしてみたらモデルなんて本当にバカみたいなものだったんでしょうね』
そして10月になるとコレクションの為に再びパリへ行った。

仕事のためにサンフランシスコとNYを頻繁に行き来していたクリスティは、仕事をしやすいように職業学校へ転校し、NYへ来たときは決まって<Ford>のモデルアパートに泊まっていた。
『<Ford>はアメリカ中の女の子を連れてきては、モデルに向くか試してるみたいだった。部屋が一緒になった女の子と仲良くなったと思ったら、1週間後にはその娘はもういないのよ』

卒業とともに<Ford>と本契約を交わし、フルタイムでのモデル活動を始めた。86年の暮れにNYへ出て一人暮らしを始めたクリスティのキャリアは1987年には急速に上昇しつつあった。Vogueのためにアーヴィング・ペンと美容記事を撮り、イタリア版・イギリス版Vogueではスティーヴン・マイゼルとも仕事をした。そして16歳にしてアメリカンVogueのお気に入りとなっていた。そしてこの頃から友人に誘われて始めたヨガに倒錯していった。

『マイゼルと仕事をし始めた頃、月の四分の三は一緒にいたの。彼のお抱えモデルなんじゃないかと思ってたわ。毎日スタジオに行ってメイクルームに入るとこんな感じなの。“今日は何しようか?今日は何を創ろうか?”って。』
『ティーンエイジャーにとって危険な自己批判に陥る時期を私はスキップしたの。Vogueが私をOKだと思ってくれれば、私もOKだってね。アーサー・エルゴートやパトリック・デマルシェリエやスティーヴン・マイゼルとの仕事があって、毎日の日々にとても自信を持っていたわ』

その一方で一家の稼ぎ頭ともなりつつあったクリスティーは、モデルとして活躍するうちに同じ10代の親戚たちからサインをねだられることも少なくなかった。

『“お願いだからそんなこと頼まないで”って思ってた。ふたりの姉妹が反抗期の時期にいる中で私一人がずっと働いていて、そのせいで私は孤立した存在だったの。ただ、自分も他のふたりと同じように扱ってもらいたかったの』



『クリスティはスティーヴン・マイゼルに私を口利きしてくれたの。それで、次の瞬間にはNYで彼と撮影してたわ。リンダとクリスティと私とでね』と言うのはナオミ・キャンベル。
その年の春、クリスティはリンダ・エヴァンジェリスタと以前から知り合っていたナオミ・キャンベルと共にマイゼルの下で撮影を行なった。三人での撮影はこれが初めてだったが、あいにく雑誌に使われたのはリンダの写真だけであったという。
こうしてトップモデルの地位を着々と築いていたクリスティと同じく、リンダやナオミ、シンディらもその地位を築いていていた。