大国魂神社 武蔵府中 2023/8
ここ府中市には「大國魂神社」がある。
大変歴史のある神社で欅並木や府中御殿などの歴史興味は尽きない。徳川家康以前の各幕府との関係も多い。
大國魂神社のホームページの抜粋を下に記します。
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当社の御祭神(大国主神)は、大國魂大神で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。
この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神で昔この国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された。
当社起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものる。
出雲臣天穂日命[いづものおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造[むさしのくにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。
孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
又、国司が国内神社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所(ろくしょ)(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮とも称せられるようになった。
寿永元年(1182)に、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、正室政子の安産の祈願が行われた。
文治2年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年(1232)2月に将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
天正18年(1590)、徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。
正保3年(1646)、類焼により社殿は焼失したが、寛文7年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。
当社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降武蔵国の総社となり、又国内著名の神六社を配祀したので「武蔵総社六所宮」の社号を用い、 明治4年(1871)にもとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。
当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は武蔵の国はもちろん、関東一円に亘っている。
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この中で特に徳川家康との関係について、最近宮司さんから聞く機会が有りました。
1590年徳川家康が江戸城へ入城する前にここ大國魂神社を訪れ、その後江戸城に入城している。
それ以来、大國魂神社は、徳川家康に大変庇護され、死後「東照宮」がここに造営されている。
以下もホームページからの抜粋
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天正18年(1590)、国替えにより関東へ入国した徳川家康公も同様に、社領500石を寄進するなど大いに崇敬しました。
神社の西側ほど近くに府中御殿を建て、しばしば鷹狩に訪れたなど、関東入国以来この地には大変ゆかりがありました。
また大國魂神社の神職が関ヶ原の戦い・大阪の役に従軍し、戦勝祈願をしたとも伝わります。
家康公は死後、静岡県久能山へ葬られますが、遺言に従い、1年後日光へ移葬されます。
家康公の神柩は、久能山から日光へ19日間の道中、府中御殿にて1泊し、祭祀がとり行われました。
大國魂神社末社の東照宮はその遺跡を後世に伝えるために元和4年(1618)、2代将軍秀忠の命によって造営されました。
東照宮(とうしょうぐう) 祭神:徳川家康公
大國魂神社の境内末社として、大國魂神社の社殿に向かって右手回廊外側に祀られている
元和3年(1617) 家康公の神柩を久能山から日光に遷移する際に、大國魂神社に2日逗留した。このことに因み2代将軍秀忠公の命で、元和4年(1618) 造営、勧請した
東照宮
府中御殿跡 徳川家康が鷹狩りの時に宿泊した御殿がここ武蔵国府跡に建っていた
宮乃咩神社(みやのめ神社)
源頼朝正室政子の安産の祈願が行われたアメノウズメノミコトを祭る宮乃咩神社
絵馬は柄杓を納める
柄杓の底は持ち帰り、願いが叶ったら納めるのです。