多磨霊園(5)  軍人 | ミリタリーイベント

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過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
ヤフーブログからの引っ越しです。

多磨霊園(4)  軍人

 

 

柴山 矢八(しばやま やはち、1850年8月20日 - 1924年1月27日)
幕末から明治期の海軍軍人、最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。東郷平八郎は従兄。
明治政府には開拓使として仕官し、1872年より2年間アメリカに留学。帰国後に海軍へ出仕、中尉に任じられた。
魚雷・機雷製造現場で働き、研究開発を推進。
1879年に水雷練習所長、1883年に水雷局長に任じられており、水雷の父として賞賛される。
以後も研究・事務を中心に勤務しており、艦隊勤務は少ない。
西南戦争が初陣で砲兵大隊に属した。1876年に「浅間」乗組員として1年勤め後は、再び事務に戻っている。
1886年参謀本部第2局長に就任、この年に西郷従道の随員として欧米各国を視察し、帰国後1887年艦政局次長となり、軍令・軍政の要職を歴任。
戦後の1897年中将へ昇進し、常備艦隊司令長官に任命される。
しかし、旅順陥落によって日露戦争が一つの山場を越えた1905年占領したばかりの旅順を早急に活用するべく旅順口鎮守府を設置することになり、初代長官に抜擢された。
湾内に着底した軍艦の撤去と修理、閉塞のため沈めた商船や双方が敷設した機雷の除去など、鎮守府を開くにあたって多くの困難があった功績の積み重ねが評価され、1905年大将へ昇進。

 

渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)
陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
愛知県小牧町に生まれる。1894年徴兵検査を受けて甲種合格し、同年陸軍士官学校の召募試験に合格し、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった。
1903年陸軍大学校17期を首席で卒業。歩兵第36連隊中隊長として日露戦争(1904年 - 1905年)に出征、その後は参謀本部での勤務、海外での勤務が多く、最小限の隊付勤務で将官となり、陸軍大将に親任された。
1936年教育総監 兼 軍事参議官に在職中に二・二六事件が起き、自邸を襲撃した反乱軍に殺害された。61歳没。

 

畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日- 1930年5月31日)
陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生まれる。東洋英和学校(現:麻布中学校・高等学校の前身)、陸軍士官学校入校。1896年歩兵科を首席卒業。陸軍少尉任官。1903年陸軍大学校を優等で卒業。
近衛歩兵第2連隊中隊長を経て、日露戦争には第1軍兵站副官として出征、同兵站参謀、鴨緑江軍兵站参謀、大本営参謀を務める。
参謀本部員、参謀本部付、イギリス大使館付武官補佐官、インド駐剳武官、欧州出張、陸軍省軍務局軍事課員、歩兵第56連隊長、軍事課長など歴任し、1920年8月、陸軍少将に進級。
航空局次長、軍務局長を経、陸軍中将に進級、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。
1929年関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において畑の手腕が期待されていた。
しかし、翌年5月1日、陸軍大将に進級後、現役のまま旅順で死去。公式には「病死(急性腎臓炎)」と発表されたが、何者かによる毒殺説も存在する。

 


水城 圭次(みずしろ けいじ、1883年11月10日 - 1927年12月26日)、海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
長野県東筑摩郡中山村に村長・水城高次郎の三男。松本中学校を経て1904年、海軍兵学校を卒業し少尉候補生で、日露戦争に出征。1905年、海軍少尉任官。防護巡洋艦「津軽」分隊長などを経て、海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学んだ。
1924年、海軍大佐に進級。1926年、軽巡洋艦「名取」艦長となり、同年11月、軽巡洋艦「神通」艦長に異動。
1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖での夜間演習中に「神通」は駆逐艦「蕨」と衝突、「蕨」は沈没し乗員ほか艦長の五十嵐恵少佐を含む119名の死者を出した。
同年10月、横須賀鎮守府付となり、軍法会議の判決が下される前日12月26日に自宅で自決(美保関事件)。
享年44。砲術のエキスパートとしての長年のキャリアがたたり、左耳の聴力を失ったうえ右耳も聞こえにくくなるという難聴を抱えていたことが事故の遠因となってしまったのではないかとされる。
墓碑は、東京の多磨霊園と松本市神田の自性院にある。多磨霊園の墓の裏には、海軍有志により記念碑が建立されている。