調布基地 掩体壕 2023/2/8
昭和16年に完成した調布飛行場は、陸軍飛行隊や高射砲部隊が配備され本土防衛に尽力した。
その広大な痕跡は現在の調布飛行場周辺各所に見られるが、今回は4基残る掩体壕の内、飛行場北東部に残る2基を。
なお掩体豪は有蓋掩体壕30基、無蓋掩体壕30基有ったそうだ。
掩体壕大沢1号、当時格納されていた飛燕が描かれている。
陸軍飛行第244戦隊の飛燕が中心だった。掩体壕に格納中の飛燕の1/10カットモデル
掩体壕大沢2号 バックは飛行場
尚、戦時中の調布飛行場の様子については、以下の桜井氏のWebページに詳しく書かれており、要約して載せさせていただきます。
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『陸軍飛行第244戦隊史』櫻井 隆氏著、Webページ制作
Imperial Japanese Army Air Force 244th Sentai Home Page
1.建設
昭和16年4月30日、竣工。
滑走路は120ミリ厚コンクリート舗装で、南北1000m、東西700m、幅員は共に80m、夜間着陸照明も備え当時としては本格的なもので、開場時、「東洋一の規模」と喧伝された。
2.戦時の飛行場
昭和16年7月20日、防衛総司令部が新設された。その麾下に編成された第17飛行団と、
その直轄部隊である飛行第144戦隊(後に244戦隊と改称)が配置され、調布飛行場は帝都防空の最重要基地となった。
この頃、飛行場と東京天文台の間の水田を埋め立てて東京飛行機製作所(後の倉敷飛行機)調布工場が開設され、三鷹町大沢の広大な用地に中島飛行機三鷹研究所の建設が開始された。
昭和17年、最初の用地拡張が実施され、新設の南格納庫地区には第1航空軍司令部、第17飛行団司令部および同偵察中隊、第14航空通信隊等が配置された。
また、飛行場内外に多数の掩体とこれを繋ぐ誘導路、天文台下の段丘崖には射朶や地下兵舎、燃料庫などが設置された。
更に、飛行場を一望できる東京天文台東側の崖上に高射砲第112連隊第1大隊の高射砲陣地12門および電波標定機が配置され、調布飛行場は、防空要塞と化した。
3.帝都空襲そして終戦
20年2月16日早朝から開始された敵艦載機延べ約1000機による空襲では、関東、東海各地飛行場が目標となり、調布も16、17両日にわたって銃爆撃を受けた。
昭和20年4月7日、硫黄島を発進したP51約30機がB29を掩護して来襲した。
これ以降、P51は本土上空を我が物顔に飛び回り、我が邀撃機は無力に等しい存在となった。
5月17日、調布飛行場の主たる244戦隊も特攻掩護のため九州知覧へと去り、帝都の要害としての調布飛行場は、その役割を終えた。
5月25日深夜、帝都西部を襲った焼夷弾攻撃は調布町と三鷹町にも及び、調布飛行場南地区、東地区も火の海となった。
これにより大格納庫と木造格納庫4棟をはじめ多くの兵舎が焼失し、飛行場の風景は一変した。
8月15日、終戦の詔勅が下ったが、この日、在調布特攻諸隊の3式戦計23機と、これを掩護する飛行第52戦隊の4式戦30機は、新たな特攻作戦参加のため、南九州への出発準備中であった。しかしこれにより一切の戦闘行動が中止され、22日、全軍に武装解除が下命された。
更に、24日全ての飛行が禁止され、皇軍飛行部隊はその幕を閉じた。
4.占領
9月2日、沖縄から飛来したC47あるいはC46輸送機と護衛のF4Uコルセア数機が調布に到着し、武装解除を確認。
米陸軍第8軍 騎兵第1師団 第12連隊の約1000名が横浜から八王子を経由して到着、調布飛行場を占領した。
9月17日、進駐連合軍より日本政府に調布飛行場接収の申し入れがあり、これ以降、調布飛行場ならびに倉敷飛行機会社調布工場は米軍施設として供用されることになった。
9月28日P38ライトニングおよびP51ムスタングを装備する米陸軍第8写真偵察飛行隊と第82偵察飛行隊が調布に到着した。