2020年4月、専門サイトのほとんどがひとつの悲報を一斉に伝えた。1950年代のF1を彩ったドライバーのひとり、スターリング・モスの天国への旅立ちだ。ナイトの称号を持つレース界のレジェンド、無冠の帝王…短い記事にはこんな言葉が掲載されていた。

なぜレジェンドで、なぜ無冠の帝王とよばれたのか。今どきは検索サイトで簡単に調べられるが、1950年代のレーシングドライバーたちを愛するわたしとしては、語らないワケにはいかない。お金や、ときには勝利より自分の信念の一貫を大切にした武骨で強靭な精神、一方で職業ドライバーの地位を確立し、現在に続く道を切り拓いた柔軟な思考を持ち合わせたひとりのイギリス人。今、心からの哀悼の意とともに、その人生を語ろう。

 

1929年9月17日、イギリス・ロンドン生まれの生粋のイングランド人である。両親ともモータースポーツ好きで、とくに歯科医の父親は、1924年のインディ500に参戦したアマチュアレーサーだった。さらに、スターリングより5年遅れて生まれた妹のパットも、国際ラリードライバーとして大活躍する。そんなモータースポーツ一家の長男が、レーシングドライバーになるのは当然であった。

1951年にF1デビュー。F1自体が世界選手権としての歴史を刻み始めたばかりの頃だが、当時のイギリスのレース界はまだ発展途上。ハーシャム・ウォルトン・モータースというイギリスチームのクルマで挑むも、フェラーリやアルファロメオ、マセラティと言ったイタリア勢に対抗できる術は皆無だった。マイク・ホーソンやピーター・コリンズなど、同時期のF1で戦うイギリス人ドライバーたちがフェラーリへ移籍していく中、母国愛の強いスターリングは、イギリス製のクルマでF1に勝つという夢を捨てなかったのだ。

挑んでは散り、また挑戦しても跳ね返される。そんな「熱く戦う男」をエンツォ・フェラーリが見逃すワケもなく、何度か美味しいオファーを打診したが、どうやらスターリングは、イタリアのF1チームには天地がひっくり返っても行きたくなかったようだ。彼の悲願は1957年に達成される。地元のシルバーストンでイギリス製F1カーを駆っての勝利という、なんともドラマチックな展開だった。ただ、スターリングはデビューした51年からこの年まで、イギリスのチームだけに拘っていたワケでもないのだ。

 

スターリング・モスのF1初勝利は1955年のイギリスGP。チームメイトのファン・マヌエル・ファンジオを、なんと0・2秒差で抑えるという劇的な初勝利だったが、このとき所属していたのはメルセデスである。しかし、ドイツのチームは翌年に撤退し、たった3年でF1から消えた。こうした、親会社の都合に振り回されるワークスチームの事情に嫌気がさしたのか、イギリスに戻ったスターリングは、レース好きな資産家がオーナーのプライベートチームと契約し、クーパーやロータスなどのイギリス車を駆り、巨大なワークスチームに全身全霊でぶつかって行くのだ。彼が「レジェンド」と呼ばれるゆえんは、こうした反骨精神でワークスチームに勝利した事実にある。ちなみに、当時メルセデスのエースドライバーだったファン・マヌエル・ファンジオはスターリングより18歳も年上だが、わずか2年のチームメイトでもふたりは意気投合。ファン・マヌエルが80余年の人生を終わらせるまで、深い友情を保ち続けた。

 

では、「無冠の帝王」と呼ばれた理由は何か。スターリング・モスがワールドチャンピオンを獲得できなかった理由のひとつに、わたしは彼のF1キャリアの短さがあると考える。ファーストドライバーの地位を確立して以後の、55年から58年は2位、59年から61年は3位。F1カーがフロントエンジンからミッドシップへと進化していく過渡期、さらにレース後進国だったイギリス製のクルマに拘ってのこのリザルトは、文字通り驚嘆に値する。

これはもちろん、2位3位狙いのレースをしていたのではなく、スターリング独特の信念「美しく勝つ」を貫いた結果だといわれる。その典型的なレースとして語られるのが、1958年のポルトガルGPだ。

ブッ千切りのトップでゴールラインを通過したスターリング。彼はレースの最中、ライバルのマイク・ホーソンがスピンし、観客にクルマを押されてコース復帰する姿を目撃した。周回遅れの2位でゴールしたマイクだが、明らかに失格である。しかし、ドライバーで唯一の目撃者だったスターリングは、マイクの行為を訴え出なかったのだ。レースの監視が人の目だけだった時代、2位は何事もなく確定。そしてこのシーズン、4勝を挙げたスターリングは、1勝だけのマイク・ホーソンにわずか1点差で敗けた。

もし、ポルトガルGPでマイクが失格していれば、1958年のワールドチャンピオンは間違いなくスターリング・モスの手に渡り、彼が無冠の帝王と呼ばれることもなかった。栄光より自分の信念を貫いたが、後世にこのときの「沈黙」を微塵も後悔しなかったか…真実は永遠に語られない。

 

さて、スターリング・モスは、個人マネージャーをつけたF1史上で最初のドライバーでもある。これはあまり知られてない気もするが、彼の登場前までのレーシングドライバーは、レース好きの資産家の息子だったり、メーカーの契約社員という立ち位置だった。それを、レース活動の収入だけで生計を立てられる「ドライバーのプロ化」の道筋を最初に作った人物が、スターリングと彼のマネージャー、ケン・グレゴリーである。レーシングマネジメント専門の会社を設立し、その後、多くのドライバーたちの生活安定と、イギリスレース界の発展に尽力することになるのだ。

1962年4月のイギリス・グッドウッドのレースで大クラッシュし、両足骨折を含む重傷を負ったのが、彼のキャリアの終焉だった。1年後に復帰したものの、以前のような走りは望めず引退を決意。33歳は、当時のF1界では全盛期の年齢だった。

一線を退いたとはいえ、まだ30代前半。たまに公認レースにスポット参戦したり、ヒストリックカーのイベンドに出たりと気ままにドライブしながら、F1の解説やコメンテーターとして大活躍した。近年は怪我や病気を患い、ロンドンの自宅で静かな余生を過ごしていたようだ。

そして2020年、充実と幸福に満ちた90年の人生の幕を降ろした。シートベルトもなく、まともなヘルメットすら被らず、時速300キロの世界で勝負した時代。10年間に30人近いドライバーの命が散った時代を生き延び、人生を全うしたひとりのイギリス人は今、この世に何の未練もなく天国への階段を登っている。もし、現在のF1ドライバーに言い残したことある?と尋ねられたとしても、彼はあの人懐こい笑顔でこう言うだろう。

「何もないよ、ま、頑張ってくれ。わたしはこれから、久し振りにファン・マヌエルと会ってお喋りするんだ」。