わたしは、1950年代のレーシングドライバーが大好きだ。以前に語ったマイク・ホーソンも、この時代に輝き儚く散って行ったドライバーのひとり。50年代を駆け抜けた跳ね馬ドライバーたちを描く、その名もスバリ「フェラーリ」というドキュメント作品を所有しているが、彼らの豪快さ・力強さは、表現する言葉が見つからないほどだ。彼らは間違いなく、現在のレーシングドライバーが失ったモノを持っていた。ただし、2020年のF1ドライバーの当然持ち合わせている力量が、1950年代には皆無だったことも、また事実である。

そんな1950年代のモータースポーツ界において、ワールドチャンピオンを5回も獲得した、文字通りのスタードライバーがいた。その名を、ファン・マヌエル・ファンジオという。プロデビューが38歳とかなりの遅咲きで、全盛期も決して派手な走りや勝ち方をしなかった。当時は新進気鋭の若手ドライバー、スターリング・モスやピーター・コリンズが目の覚めるようなスピードレースを展開したが、ファン・マヌエルの走りは安定して速く、そして何より安全重視だった。この「安全」こそ、50年代のレース界を生き抜くために最も重要だったのだ。

 

ファン・マヌエル・ファンジオは1911年6月24日、アルゼンチンのブエノスアイレス郊外の町バルカルセで、6人兄弟の4番目の子としてこの世に誕生した。ファンジオ家はあまり裕福ではなく、さらに、学問より機械いじりが得意なファン・マヌエル少年は、13歳で自動車修理工の見習いを始める。そこでクルマの運転を覚えると、たちまち才能が開花。際立つ運転技術は兵役中に上官の専門運転手を務めるほどで、退役後はガレージ業を営みながら、国内のアマチュアレースに参戦した。

当時のアルゼンチンのモータースポーツは、グラベルロードの山岳レースしかなく、そこで腕を磨き30歳になるころのファン・マヌエルは、優勝を争うまでに成長したという。レースキャリアの上昇と共に、彼の目にヨーロッパが見え始めた矢先、第2次世界大戦が勃発。ただ、この大戦に参加しなかったアルゼンチンは戦後、復興どころか大戦中の物資輸出などで潤ったといわれる。

1948年、ヨーロッパへ渡ったファン・マヌエルは、この年のグランプリレースにスポット参戦。翌年、38歳でグランプリデビューのフル参戦すると、優勝・入賞を何度も記録し、ヨーロッパの名だたるレーシングチームが彼の名前を契約リストのトップに載せるようになるのだ。

 

1950年、現在のF1史の始まり「フォーミュラ世界選手権」が開始される。この年、強豪アルファロメオと契約した39歳のルーキーは、キャリアでは大先輩のチームメイトと熾烈なトップ争いを演じ、僅差の2位。そして1951年、急成長してきたフェラーリに追われながらも、ついに初タイトルを獲得したのである。

1952年、アルファロメオがF1から撤退し、エースドライバーの去就が注目された。当時は今でいう「コンコルド協定」のような取決めはなく、チームと契約しなくても、ドライバー個人の力量次第で単独のレース参戦が可能だった。新しいチームを探しながら、ちらほらと参戦していたファン・マヌエルだったが、6月のモンツァで大クラッシュ。首の骨を折る重傷を負い、以後半年のベッド生活を余儀なくされた。これが、彼のレーシングキャリアにおける「どん底」であった。

 

1953年、マセラティからF1復帰したファン・マヌエルは、翌年1954年にメルセデスへ移籍。エンジン規定が2・5ℓとなったこの年、F1復帰したシルバーアロー。そのクルマ「W196」を駆るファン・マヌエル・ファンジオに、対抗できるチームもドライバーもいなかった。

この54年と、翌年の55年に連続チャンピオン獲得。まさに、彼の黄金期である。ただ、ファン・マヌエルは先読みが苦手だったのか。初タイトルを獲得したアルファロメオ同様、メルセデスもわずか2シーズンでF1を去る事になる。またしてもフリーとなったが、戴冠3回のチャンピオンドライバーは引く手あまた。宿敵アルファロメオに勝利した後、急激に勢力を伸ばし、当時のF1界でもっとも強いとされたスクーデリア・フェラーリとの契約も、さほど困難ではなかったのだ。

1956年、母国を飛び立って8年目にして、ようやく跳ね馬ドライバーのシートを手にしたファン・マヌエルは、この年のシーズンタイトルを獲得した。それは決して楽な戦いではなく、最終戦のイタリアGPではクルマにトラブルが発生。チームメイトのピーター・コリンズが自分のクルマを譲ってくれなければ、ファン・マヌエルはリタイアし、4回目のワールドチャンピオンもなかった。

現在では信じ難いのだが、1950年代のF1には、同じチームならばクルマを変えてもいいというルールがあったのだ。また、ピーター・コリンズの心意気も、現在のF1ドライバーには理解できないだろう。自分のリザルトより、チームメイトの戴冠のため率先してクルマを降りた。若きイギリス人ドライバーの心意気と、それに感動しまくったワールドチャンピオンの物語は、モンツァの歴史にしっかり刻まれている。

 

エンツォ・フェラーリは、ドライバーの好き嫌いが激しかった。気に入れば息子のように可愛がるが、そうでない者に対する態度は露骨だったという。そんなエンツォと対立し、1年でフェラーリを出たファン・マヌエル。1957年には古巣のマセラティへ戻るが、このシーズンを駆るクルマ「マセラティ250F」は、4年前の設計による旧型だった。1950年代であろうと、F1はそれなりの日進月歩で進化している。新興勢力著しく、さらに、王者フェラーリが本気の勝負を仕掛けてくるのだ。

ファン・マヌエルにとって、実に厳しいシーズン。その象徴が現在も語り継がれるレース、8月のドイツGPである。まず、現在の感覚で驚異的なのが走行距離だ。ニュルブルクリンクのフルコースを22周、なんと502㎞である。これはもう、F1ではなく耐久だ。ファン・マヌエルの駆るマセラティの古いクルマでは、どうしてもタイヤ交換が必要になる。対するフェラーリ陣営は、502㎞を交換なしで走り切れる性能のクルマで参戦した。

レース前の予想通り、終盤で1分近くフェラーリ勢に遅れを取った彼を見て、人々は思った。「さすがに、今年のワールドチャンピオンは無理だろう」と。しかし、ここからがドラマチックだった。毎周、コースレコード更新という鬼神の追い上げを見せたファン・マヌエルは、最終ラップの大逆転で優勝。同時に5回目のチャンピオン獲得を決めて見せたのだ。

当時、「ハマキ型」と表現されたF1カーの性能の限界を考慮したとき、1分の遅れを残り100㎞と少しで逆転するのは、常識的には不可能だった。ファン・マヌエルの勝利はそれを可能にした、まさに奇跡の大逆転だったのである。

「もう、2度とこんな走りはできない」という名セリフを発した47歳のワールドチャンピオンは、この栄光を最後にF1を引退した。

 

1950年代は、レーシングドライバーの命が露のように儚い時代だった。そうした時代に5度のワールドチャンピオンを獲得したファン・マヌエル・ファンジオの走りの哲学は、「できる限り遅いスピードで勝つ」だったそうだ。物凄いスピードでサーキットを駆け抜け、煌びやかに輝き、そして散っていったドライバーたちとの比較では、ファン・マヌエルの走りは地味で面白味にかけていたかもしれない。しかし、彼はF1の歴史に名前を刻んだ。穏やかで温厚な紳士は、引退後もレース界の様々な舞台で活躍し、幸福に満ちた84年の人生を全うしたのだ。

彼がもし、2020年のF1パドックを歩いていれば、現在のドライバーたちに何を言うだろう。そんな想像をしながら、長い語りを終わらせよう。