今回の物語は、その舞台がF1ではなく耐久レースだ。それでも、モータースポーツの歴史に刻まれる大事件であり、これをテーマにしたハリウッド映画の公開時期に合わせ、どのような出来事だったかわたしなりに語ろうと思う。ただ、この物語には両社で多くの人物が登場し、事の次第を詳しく語れば単行本1冊分ほどの長さになる。そこで、今回は大幅に省略し、登場人物はエンツォ・フェラーリとヘンリー・フォード2世の両社のトップふたりだけ、細かい場所や日付もカットして出来る限り明瞭端的に記す。

 

1957年、アメリカの自動車生産者協会は、クルマの広告・宣伝にスピードやレースの表現を禁止した。理由についての資料はないが、その過剰により交通事故が増大したのかもしれない。しかし、当時のアメリカ国内市場は、高性能・高馬力のロード・カーのニーズが急激に高まっていたのだ。1962年6月、フォード・モーター・カンパニーは協会から脱会、自動車レースへの参戦を決める。ロード・カーが売れると見たヘンリー・フォード2世は、その分野で知名度を上げクルマを売りまくろうと考えたのだ。

当時はインディカーレースに参戦し始めていたが、確実に勝てる知識や技術はまだない。てっとり早くなんとかできないか…と物色していた矢先に、絶好の「獲物」が見つかる。本当だったか疑いたくても、資料ではヘンリー・フォードに部下がこう報告したと記されている。

「イタリアの田舎町にあり小規模ですが、レースは強いそうです。この会社を、社長が売りたがっているらしいです」。

 

マラネロは現在でも、決して都会的な町ではない。フェラーリ本社の巨大で近代的な建物群がなかった1960年代は、今よりはるかに田舎だったのは確かだろう。エンツォ・フェラーリにとって、自身の情熱を注ぐモノは自動車レース以外に何もなかった。アルファロメオから独立し会社を設立したころは、クルマを売るためにレースをしていたが、競争の刺激と勝利の歓喜を覚えてしまうと、それが完全に逆転してしまった。

1950年代後半から、カテゴリを問わず多くのレースに大量のフェラーリ・カーを参戦させるようになり、当然の流れで出費は増え、会社の利益が赤くなり始めた。会社経営など頭から外し、レースだけに集中したいと考えたエンツォは、1962年の初めごろから売却先を模索していた。その動きを、アメリカの自動車会社が察知したのだ。

 

売りたい側と、買いたい側。これだけならば、理想的な取り引きのように感じられる。1963年の早い時期から交渉は開始されたが、フェラーリとフォードの双方には、国民性とも言うべき根本的な考え方の違いがあった。アメリカの大都市デトロイトに本社を構える巨大企業のフォードとって、イタリアの片田舎の小規模会社など安い買い物。さらに彼らは、「買収」の考え方で事を進めていた。つまり、「我々が金を払って買い取るのだから、その会社のすべては我々の物になるんだよ」という、アメリカ人のビジネス思考だ。何度か交渉のテーブルに着き話し合い、契約書類を作り上げたフォード側の担当役員は、こうした自分たちのビジネス思考が当然、相手にもあると思い込んだ…これが間違いだった。

交渉最後の会議。双方のトップがサインするだけに仕上がった書類を読んだエンツォ・フェラーリは、その場で激怒したという。そこには、今後フェラーリが造るレーシングカーは、フォードの名前でレース参戦すると明記されていたのだ。会社は売るが、レーシング魂は売らない。ここまで築き上げてきた名誉と誇りを、金に換えるワケないだろう、というイタリア人の考え方をフォード側は理解できなかった。

テーブルを一度叩き、怒りの言葉を発したエンツォは、そのまま会議室を出て行ったという。同席していたヘンリー・フォード2世にすれば、「無礼この上ない態度」という事になる。このときの彼のはらわた沸騰度は、100℃を超えていたかもしれない。自分たちの力だけでフェラーリを打ち負かしてやると、レース史上類を見ない巨大プロジェクトを始動させるのだ。

 

フォードの動きは早かった。フェラーリとの決裂後すぐ、イギリスのロンドン郊外にレーシングカー製造だけが仕事の会社「フォード・アドバンスト・ビーグル」を設立。ここで誕生したのが、レース史上に刻まれる名車「フォードGT」だ。レースに勝ち、何よりフェラーリに勝つため生み出されたレーシングカーだったが、1964年のル・マンは惨敗。ギアボックスの故障で完走すらできないフォード勢を後目に、フェラーリ275P―330Pがレース終盤は隊列を組みパレードという、余裕の1―2―3フィニッシュを飾る。

プロトタイプは惨敗したものの、64年ル・マンのGTカーカテゴリは、フォードの「シェルビー・コブラ」がフェラーリ250GTに勝利している。このシェルビーという名前こそ、公開される映画の主人公のひとりだ。

翌年、1965年のル・マン24時間レースも、フォードは惜敗の涙を流す事になる。ただしフェラーリも、序盤からフォードと激しく戦ったワークスチームが全滅。表彰台を独占したのは、ワークスより馬力の劣るプロトタイプを駆るプライベートチームだった。

フォードが始動させた巨大プロジェクトの目標は、フェラーリの前でゴールする事ではなく、彼らを負かしたル・マンでの優勝だ。惨敗した2年間から学び、戦闘力と信頼性を格段に引き上げたクルマ「フォードGTマーク3」と共に、ヘンリー・フォード2世自らが1966年のル・マンにやって来た。

この年はル・マンの前からマーク3の強さ速さが話題になっており、フェラーリを打ち負かすかもしれないと、サルテサーキットは盛り上がっていたそうだ。その期待通り。レースがスタートして24時間後、人々はフォードGTの3台が縦一列でゴールする光景を見た。表彰台独占。14台も参戦したフェラーリは次々と消えていき、2台完走がやっとであった。

 

ヘンリー・フォードは自身の目と記憶に、悲願達成の瞬間を焼き付けた。今だから言えることだが、フェラーリとの交渉決裂がなかったら、フォードGTはこの世に生まれていなかっただろう。いや、その名前で呼ばれるクルマは造られたかもしれないが、現在も衰えない強さ・速さをまとう事はなかった。

名車が誕生するとき、そこに必ず素晴らしい人間ドラマがある。