今から60年以上昔、1950年代のフォーミュラカーは「葉巻型」と呼ばれている。名前のイメージ通り、巨大なハマキ型シャシーに簡素なコクピットを作り、車体の四隅にタイヤを取り付けたクルマだ。それでも、フロントに搭載したV12気筒エンジンの出力は凄まじく、時速200キロを軽く超える走りで勝敗を競っていた。「ドライバーを保護する」なんて思考は皆無の時代、シートベルトのないレース風景には、タイトコーナーでイン側へ極端に身を乗り出すドライバーの姿がある。まさに、命懸け。

さらにこの時代は、「観る側」への安全配慮もほぼ皆無だった。当時のレース映像では、クルマが猛スピードで爆走するコースの脇際まで観客が詰め寄せている。第1章で10年間に39人のドライバーが亡くなったと記したが、レース観戦で亡くなった人の数も、資料がないぶん想像を絶する。

それでも、普通に自動車レースが開催された。ル・マンで大事故が発生した年はさすがに自粛しても、翌年からまた、いつものシーズンが始まり人々はレース会場に足を運んだ。

 

1955年のル・マンの大惨事から2年後。マイク・ホーソンはフェラーリ復帰を果たす。このとき、跳ね馬ドライバーだった同じイギリス人のピーター・コリンズと意気投合。ふたりの仲は、メディアが「モナミ・メイト」と形容するほどの大親友になる。この仲良しぶりを知るに充分なエピソードを記そう。マイクがフェラーリ入りした、1957年のドイツGPだ。

決勝レースが半分ほど経過した時点で、マイクとピーターはトップ2を独占し、3位以下を大きく引き離していた。ふたりは余裕のクルージングで、互いに前へ出たり後ろへ下がったりしながら走っていた。ところが、彼らがじゃれ合っている間、遅れていた3位マセラティのファンジオが猛追。前の2台をパスし逆転優勝するという、フェラーリにすれば悪夢のような結果となった。当然、エンツォ御大は激怒。

ドライバー同士を競わせ、極端な緊張状態を保つ事で勝利を引き寄せるというのがエンツォの信念だ。しかし、その後もマイクはピーターと争うどころか、相手の走りを褒め、モナミ・メイトの関係を大切にし続けた。こうして、運命の1958年を迎える。

 

1958年はマイク・ホーソンのレーシングキャリア最高の年であり、彼の人生最大の悲しみに襲われる年になる。ファンジオの引退レースとなったフランスGPでは、マイクが優勝。続くイギリスGPではピーターが勝ち、互いに1勝ずつでドイツGPに臨んだ。このニュルブルクリンクで悲劇が起きる。

マイクとピーター、そしてもう1台の3台が熾烈なトップ争いを展開するレース。白熱の走りは限界を超え、フランツガルテンの右コーナーでピーター・コリンズのクルマがクラッシュした。マイクにとっての悲劇は、真後ろを走っていたため、大親友の「旅立ち」の瞬間が目に焼き付いてしまった事だ。

「彼のクルマは空中に浮き上がり回転して、土に突き刺さった」。

ピーター・コリンズ、26歳の絶命。その散り際を記憶に刻んだとき、マイク・ホーソンはある決断をした。果たせなかった親友の想いに報いるためにも、今年のワールドチャンピオンを獲得し、そして去ろう…と。

58年シーズンは、頭角を現してきた同じイギリス人ドライバーのスターリング・モスとチャンピオンを争っていた。親友を亡くした悲しみを走りで紛らわせ、マイクが記録したこの年のリザルトは優勝1回、表彰台7回。一方のモスは4度も勝ったのだが、表彰台に上がった数5回がマイクとの戦いに敗れた原因だった。それでも、わずか1点差。

マイク・ホーソン、フェラーリドライバーでグランプリ初優勝。現在ではルイス・ハミルトンが勝ちまくって誰も考えないだろうが、実はイギリス人最初のワールドチャンピオンがマイクである。

こうして、頂点を極めたひとりのイギリス人ドライバーは、たった一度の歓喜と親友との多くの思い出を胸に自動車レースの世界を去って行ったのだ。

 

1959年1月22日、時刻は昼ごろ。場所はイギリス・ロンドン郊外の国道A3のギルフォード・バイパス。雨に路面を濡らす道を猛スピードで走るジャガー・サルーンが、リアタイヤを滑らせ横向きになり、そのまま路肩の巨大な木の幹へ突っ込んで行った。物凄い衝撃で変形したクルマは原型を留めず、事故写真を観ると太い木の幹に鉄の塊が張り付いているようだ。

クルマを運転していたマイク・ホーソンは、「あっ」と言う間もなかったと思う。たぶん、何が起きて自分がどうなったか理解する前に、魂が体を離れただろう。この事故には、幾つかの目撃証言があった。事故の直前、マイクのクルマはもう1台のメルセデス・ベンツ300SLと、抜きつ抜かれつの公道レースをしていたと言うのだ。もし、これが原因で大木に激突したならば、彼の人生は極めて数奇な運命により幕引きされた事になる。

自分が引き金とされ、心に深い傷を負った1955年のル・マン大惨事で接触したクルマこそ、メルセデス・ベンツ300SLRだった。

 

マイク・ホーソン、29歳。F1の頂点を極め、その数ヶ月後にこの世を去ったためかあまり知られてないが、イギリス人最初のワールドチャンピオンであり、スクーデリア・フェラーリが初めて雇った外国人ドライバーでもある。

日本人の記憶に薄い1950年代のF1。屈強な男たちが、自分の度胸と強さ・速さを誇示すべく命懸けで走っていた時代に、「大好きなクルマが運転できて、世界中を旅行できるから」という理由だけでF1ドライバーになったイギリス人がいた。

レーシングスーツなどなかった時代、緑色のシャツに蝶ネクタイ、白いニッカーズボンという姿で名車「フェラーリ・ディーノ246」を転がし、スターの輝きを放つのも束の間、数奇な運命により短い生涯を終えたひとりのドライバーがいた事を忘れないでほしい。