ようやく本来の実力を発揮し始めたホンダ製パワーユニットが、レース好きの日本人に細やかな期待を抱かせてくれる2019年シーズン。バブル期の熱狂的なF1ブームを経て、日本国内である程度の知名度を確保した自動車レースも、今から60年ほど前の時代はほとんど知られていない。
この時代を象徴するような、ひとつのデータがある。
1950年代の10年間で、レースとテストを含めた競技用車両の走行中の事故で亡くなったドライバーは、なんと39人もいた。シートベルトなどないし、ドライバーは自前の簡素なヘルメットを被っているだけ。観客は「その刺激」を求め、クラッシュしても運よく無傷で助かったドライバーに罵声を浴びせたと言う。なんとも、凄まじい時代である。
それでも、華やかで強く速い「男らしさの象徴」とされたレーシングドライバーは、人々の憧れとして羨望の眼差しを受けていたのだ。文字通り命知らずな者たちが自分の勇気を試すため、そして名声を手にするべく、危険極まる世界に飛び込んで来た。
そんな、ドライバーたちの命が薄氷のように脆く儚い時代を駆け抜けた、ひとりのイギリス人が今回の主人公である。レースの安全性なんて思考は皆無の、現在では考えられない時代。多くの者が名声を欲し命懸けで走っていた自動車レース界に、彼が入った理由はただひとつ。
「大好きなクルマを運転しながら、世界中を旅行できるから」。
マイク・ホーソンは1929年4月10日、イギリスのメクスボローという街で生まれた。父親レズリーが、戦前のイギリスでは名の知れたサーキット「ブルックランズ」の脇で高級車の販売店を営んでおり、ホーソン家はかなり裕福だったのだ。レズリーは自分が果たせなかったグランプリドライバーの夢を息子に託し、マイクのレース参戦を積極的に応援した。
1952年、GTからフォーミュラに転身するとグランプリ世界選手権に参戦。豊富な資金で購入できる高性能なクルマと、マイク自身の才能により、各地のレースで素晴らしい成績を残すのだ。ベルギーGP4位、オランダGPも4位、そして、ついに地元イギリスGPで3位表彰台へ。
金髪・色白でいかにも「坊や育ち」の新人ドライバーが、実は物凄く速い…人々の注目度が高くなると、大きな勢力も動き始める。
1952年の暮れ、スクーデリア・フェラーリから53年シーズンの契約に関するオファーがあった。この時代のフェラーリは、まさにイタリアの星。エンツォが皇帝として君臨し、契約ドライバーたちには夢のようなサラリーと引き換えに、命懸けの走りを要求していた。彼は4台のクルマのシートを、5人のドライバーで競わせたのだ。
「わたしが必要とするのは優勝だけ。2位や3位に何の価値もない」。
こうした、エンツォの厳しさに晒される当時の跳ね馬ドライバーは、アルベルト・アスカリやジュゼッペ・ファリーナなど30代から40代のイタリア人だった。そこに、24歳で金髪・色白のハングリー精神などカケラも感じ取れないイギリス人が加わった。
個人的な感覚だが、1953年のマイク・ホーソンのフェラーリ加入は、2019年F1シーズンのシャルル・ルクレールに被ってしまう。異例の抜擢や目立つ若さなど、共通点が多いからだ。
現在とは物事の価値観がかなり違っていただろう60数年前。マイクはルーキーながらも、フランスGPでマセラティのエースドライバー・ファンジオに激戦のすえ勝利。価値ある優勝は、エンツォを大いに喜ばせたという。
レースデビューが1950年だから、マイクはわずか3年でトップチームの花形ドライバーに昇り詰めた。この、挫折知らずの出世街道一直線の人生にも岐路が訪れる。フェラーリでの将来に人々が期待し始めたやさき、父親レズリーが交通事故で亡くなってしまったのだ。
マイクは僅か2年でフェラーリとの契約を解消した。実家の事業を引き継がなくてはならず、イギリスへ戻ったのだ。それでも、フォーミュラ・ドライバーは続けたかったので、55年に地元の新興チーム「バンウォール」と契約。そしてこの年、マイク・ホーソンはジャガーDタイプを駆り、あの運命のレースに参戦する。
自動車レースの歴史にあまり詳しくなくても、1955年のル・マン24時間レースで発生した事故を知る人は少なくないと思う。クラッシュしたドライバーを含め、観客80人以上の命が消えた大惨事である。わたしの手元には、「その瞬間」を映したスローモーション映像があるが、大破炎上したメルセデス・ベンツ300SLRの引き千切れた車体半分が、炎と共に満員の観客席を数十メートル暴走するという、文字通りの地獄絵図だ。
この大惨事の発端が、マイク・ホーソンとされた。大破したメルセデスは、彼のクルマに接触し空中を舞ったからだ。80人以上の人が亡くなったのに、レースが中止されなかったというのは凄い…と思いがちだが、おそらく事故当時は、惨状を正確に把握できずレースを再開させたのだろう。
後日の、大惨事の影響は甚大だった。参戦していたすべてのレースを即刻退散したメルセデスは、以後、30年以上ル・マンから姿を消す。また、フランス、ドイツ、スペインのグランプリが中止され、スイスはこの事故をキッカケに国内すべての自動車レースを禁止し、それが64年過ぎた現在まで続いている。こうして、自動車レースの歴史最大の事故が発生した1955年のル・マン24時間は、皮肉にもその原因を作ったとされるマイク・ホーソンが優勝した。ゴール直後に一瞬見せたわずかな笑みを写真に切り取られ、新聞に載せられたとき、彼は何を思っただろう。極めて身近な人物の証言によると、自宅の部屋でひとり、嗚咽するように泣いていたと言う。
(第2章に続く)