ずいぶん昔の資料だが、第一次世界大戦の終戦直後にエンツォ・フェラーリと知り合った人物のコメントを読んだ。とにかく、周りの人々を引き寄せると言う。声のトーン、情熱的な語り口の上手さ、クルマとレースの深い英知。そして何より、一度得た信頼は絶対に裏切らないし、どのような事が起きても守り抜こうとする気概が、エンツォには感じられたそうだ。

この才覚で、まずはトリノ市内の自動車改装業の会社に、様々な部品を搬送するトラックの運転手として雇われた。また、レース用に改造されたクルマのテストドライバーも務めるようになると、レース業界の多くの人間たちと接触する機会も増えた。こうして拡大していくエンツォの人脈の中で、とくに気の合うひとりの男性がいた。「CMN」という名前の自動車メーカーで、テスト主任だったウーゴ・シボッチである。

CMNは他のメーカー同様、自社製品の優秀さをアピールすべく、公道レースやヒルクライムに積極的に参戦していた。そのレースチームのディレクターだったシボッチの「ウチで走らないか?」という誘いには、もちろん、エンツォは大喜び。1919年、21歳でのレーシングドライバー・デビューだ。ただ、このCMNのレースチームでは1年しか走っていない。

その短い間にも、エンツォらしいエピソードがある。10月にタルガ・フローリオという場所で開催された公道レースだ。スタート直後のトラブルで大幅に遅れたエンツォは、前を捉えようと懸命に走っていたところ、なんと、イタリア首相の演説で道を塞がれてしまうという、現在では考えられない事態に遭遇した。まさか、「どいてくれ!」と叫ぶワケにもいかない。演説が終わるのをひたすら待ち、ゴールしたのは夕暮れどき。

もう、順位云々のレベルではない。しかし、ここで黙って引き下がるエンツォではなかった。レースの運営本部へ行き、主催者と膝詰め談判。総合9位、クラス3位のリザルトを勝ち取ったのだ。

 

どん底から頂点へ駆け上がる者の共通点は、非情に強い向上心だ。その例外ではないエンツォ・フェラーリも、CMNのドライバーではまったく満足していなかった。小規模メーカーは巨大企業のチームに絶対勝てないからだ。そこで、次なるステップとしてエンツォが狙ったのはアルファ・ロメオ。トリノ市内の小さな自動車メーカーから、イタリアを代表する巨大企業へ転職しようという彼の野望は、なぜかすんなり実現する。

このあたりの事情の資料は乏しいが、エンツォの作り上げた人脈の力と記すほかはないだろう。1920年、アルファ・ロメオのテスト部門に席を得た彼は、たちまち信頼を確保し、レギュラー・ドライバーを手中にする。この年は、去年、首相の演説で台無しにされたタルガ・フローリオで2位獲得の活躍を見せた。ときに、当時のアルファ・ロメオは多くのレースに参戦していた。地方の田舎道や山道を走ったり、国際規格のサーキット場の華やかなレースに出たり。レースの「格式」に応じて、参戦するクルマとドライバーがレベル付けされていたのだ。定石通り、その一番下からキャリアをスタートさせたエンツォは、わずか4年でトップレベルの国際レーシングドライバーにまで登り詰めた。

このトップドライバー時代のエピソードをひとつ。

1924年のフランスGP。エンツォは今で言うフリープラクティスを2度走ったあと、決勝レースをドタキャンしイタリアに帰ってしまう。なぜ、そんな事をしたのか。90歳で亡くなるまで真実は語らなかったが、当時はこんなウワサが流れたと言う。

「トップリーグのクルマの速さが怖かったんだよ。キャリア4年じゃ、まだ経験不足さ」。

イタリアにファシズムが蔓延し始め、世の中に戦争の気配が漂う1920年代後半。ムッソリーニの抑圧や、エースドライバーの亡くなる事故発生などで、アルファ・ロメオは1925年、レース活動中止に追い込まれてしまう。もしエンツォが、レーシングドライバーを職業に生きていく気だったら、こうした事態は死活問題だった。

ところが、この時期のエンツォは、ほとんどワークスドライバーの仕事をしていなかった。。生まれ故郷のモデナに店を構え、アルファ・ロメオのディーラー業に没頭していたのだ。レーシングドライバーとディーラー。これが、「エンツォ流商売」を確立させる強力な道具になる。

 

レース参戦しなくなったアルファ・ロメオの本社ガレージには、レース用にモディファイされた何台もの高価なクルマがそのまま置かれていた。それを仕入れたのか、借りたのかは解らない。資料に書かれてないので…。

ともあれ、エンツォはモデナ市やその近郊で開催されるローカルレースに、国際レース向けに改造された「超カッコいいクルマ」で参戦。勝利を重ねるごとに、富裕層やマニアックな人々がエンツォの店に大勢やって来るようになる。彼の人脈はこうした上流社会にも進出し、ある程度の資金確保にメドがついたとき、彼は自分の夢の実現に踏み切る。

1929年11月。レーシングチーム、「スクーデリア・フェラーリ」を結成。黒い跳ね馬「キャバリーノ・ランパンテ」をエンブレムにした新生チームは、シャシーやエンジンなどクルマの重要部分のほとんどがアルファ・ロメオの提供という、この会社のセカンドチームとしての船出だった。

 

イタリアの赤き跳ね馬の創設者の物語を、わたしは大きくふたつに分けている。ひとつは、生まれてから貧困と恐怖を経験し、人生のどん底から這い上がって自分のレーシングチームを立ち上げるまで。ふたつ目はそれ以後の、アルファ・ロメオとの確執と勝負を制し、チームを現在のトップブランドに成長させるまでの物語だ。今回のわたしの語りは、このひとつ目の物語だけで終わらせようと思う。あくまで個人的感覚だが、エンツォの人間味を感じるお話は、スクーデリア・フェラーリ誕生までと感じるからだ。

以後は、エンツォ個人より「レーシングチーム・フェラーリ」と「自動車メーカー・フェラーリ」のサクセス・ストーリーになってしまいかねない。やはり、人間エンツォ・フェラーリのドラマは1929年の新チーム結成で幕を下ろした方がいい。

棺桶にフタをする金属音が、死神の囁きに聞こえた軍病院。クルマやレースの情熱を熱く語った、混乱と喧騒の安酒場。首相の演説に道を塞がれ怒ったレース、自分の想定をはるかに超えるスピードにビビったグランプリ…。ひとつひとつの場面が、読む人の脳裏に鮮やかに蘇ってくれればそれでいい。