モータースポーツを愛する人ならば、誰もが知るレジェンドのひとり。イタリアの名門F1チームの創設者エンツォ・フェラーリは、その生い立ちも多くのファンに知られている。さらに今は、知らない人でもスマホでちょいと検索すれば簡単に知識を得られる時代だ。

「なるほど、フェラーリの創設者ってこんな人なのか」と。

そんな時代に、あえてエンツォの生い立ちをブログに投稿する。現在、ネットに彼の人生に関してどれほどの情報が掲載されているか、全部調べた事はないが、今回の記事はかなり細かいエピソードまで紹介できるかも…と、素人なりに考えている。愛するF1チームの創設者へ捧げる想いを込めた、ノンフィクションの物語。つまらなさ極まり、ほとんど話題のない2019年シーズンの気分転換にお付き合い頂ければ、わたしとしては光栄の至りである。

 

19世紀後半、「自動車」という乗り物がまだ世の中に浸透していなかった時代、人々の移動手段は3つだった。徒歩、馬車、そして鉄道だ。とくに鉄道は、当時の産業革命の花形であり、この事業を経営する者は金銭的に裕福で社会的な地位も高かった。

そんな時代の1898年2月、イタリア北部の都市モデナ郊外で、鉄道の部品を製造する鉄工所を経営していたアルフレッド・フェラーリの家に、ふたり目の男の子が誕生した。この誕生日にもエピソードがある。生まれたのは18日だったが、その日は何十年に一度という大雪で家から一歩も外へ出られず、アルフレッドが次男エンツォの出生届けをモデナ市役所へ提出したのは、2日後の2月20日。この日が、スクーデリア・フェラーリ創設者の「記録上の生年月日」になった。

ある専門誌のインタビュー記事で、ジャーナリストが「10歳で初めて自動車レースを観たときの感想」をエンツォに尋ねている。詳しく語ればこの年齢は少し違っており、彼が生まれて初めてモディファイされたクルマの本気走りを自分の目で見たのは、1906年9月にボローニャ郊外で開催された自動車レース。エンツォ少年は8歳だった。

さらに細かく語ると、エンツォがその後の生き方に影響したと自覚するほど感銘を受けたのはこのレースではない。1910年、モデナ郊外のアウトスラーダで開催された本格的な公道レースを観たときの衝撃を、80歳を過ぎたエンツォは鮮明に思い出せたのだ。

「わたしの人生最初の発見だったよ。自動車レースとは、こんなに感動的なモノなんだとね」。

 

鉄道産業の恩恵を受け裕福だったフェラーリ家は、エンツォが生まれたときすでに、フランス製のクルマ「ド・ディオン・ブートン」を所有していた。モデナ市の自動車登録台数がまだ30台に満たない時代、物心ついたときから「それ」が身近にあったという環境が、彼の人生にどれほど影響したかは想像に難くないだろう。

しかし、時代の大きなうねりと家族の悲劇が、エンツォを襲うのだ。

16歳のとき第一次世界大戦が勃発。3歳年上の兄アルフレードは空軍に志願し、その部隊の名前が「スクーデリア91a」、現在のF1チームの名前である。また、イタリア空軍「スクーデリア」には撃墜王と呼ばれたスター・パイロットがいて、彼の愛機に刻まれた黒い跳ね馬が、F1チームのエンブレムになった話は有名だ。ちなみに、撃墜王フランチェスコ・バラッカの機体の跳ね馬に「背後カラー」はなかった。現在の鮮やかなイエローは、エンブレムの贈呈を受けたエンツォが選んだモデナ市のイメージカラーだ。

戦争と共にフェラーリ家が巻き込まれた最初の悲劇は、主であり稼業の鉄工所経営者でもあった父アルフレッドの病死だった。突然に経営者を無くした鉄工所は倒産し、追い打ちをかけるように、兄のアルフレードが戦場で病気になりそのまま亡くなってしまう。

裕福な暮らしを満喫していたエンツォは、戦争が始まり1年過ぎないうちに貧困のどん底へ落ちたのである。

 

19歳で徴兵を受けたエンツォだが、戦場へ赴く前に病に倒れ、軍役のほとんどを病院のベッドで過ごした。それは、2度の手術を受ける大病で、回復の見込まれない病棟での日々を彼はこう回想している。

「毎日、棺桶にフタをする金属の音が聞こえた」。

エンツォの90年の人生で、この陸軍病院にいた数年間が、おそらく最大の恐怖だったと思う。兵役免除で除隊になったエンツォが「シャバ」へ戻ったとき、そこは終戦直後の混乱の真っ只中だった。

自動車関連の仕事を熱望していた彼は、除隊のとき上司が書いてくれた紹介状を唯一の頼りに、トリノのフィアット社を訪問した。しかし、紹介状は何の役にも立たず、夜の街に溢れる失業者の中に紛れる日々が続いた。

このときが、エンツォ・フェラーリの人生のどん底だ。とにかく、金がない。毎日、日雇いの仕事を見つけてなんとか食いつなぐだけ。しかし、金はなくてもエンツォには情熱と、もうひとつ、人並外れた「才能」があった。

人脈作りの技である。

その「仕事」の手始めとして、彼はまず、トリノ市内の繁華街でフィアットとその関連会社の者たちが集まる酒場を探し当て、毎晩、そこに通い詰めた。持って生まれた才能と言うべき話し上手な口調で、クルマとレースへの情熱を熱く語り続ける。そんなエンツォに、具体的なプランを最初に提供してきたのは、地元でクルマの改装業を営む男性だった。

これが、世界トップブランドのレーシングチーム創設者にまで登りつめる、エンツォ・フェラーリ出世人生の幕開けになる。

(第2章へ続く)