2017のGWを利用して私の大好きな歴史(特に戦国時代)の史跡

を見てきました。有名な城は結構行ってきたのですが改めて娘と

一緒に全国を機会あれば行こうと思っておりますお願い

※娘は全く興味ありませんゲラゲラ

 

さて今回行ってきましたのが東京から普通であれ1時間30分で

到着出来るはずの長野県上田城です!?

※GWの為 なんと到着までご飯食べた事もあり5時間も掛かり

到着したのが夕方の為 暗い~感じな。。。。

 上田城の入り口とも言える東虎口櫓門 

※携帯カメラの性能で撮るとぼんやり。。

南魯と北魯で復元した建物になります。

この上田城は昨年大河ドラマ真田丸でも扱われた真田信繁(幸村)

の父 真田 昌幸が築城しました。

この真田家は歴史でも有名で真田三代を耳にした事があると思います。

 

幸隆➡昌幸➡信繁 信幸

 

真田家は武田家に仕え幸隆は武田信玄で戦略に秀でた将でした。

その子(3男)である昌幸も信玄そしてその子勝頼に仕えた智将です。

特に主家である武田家が織田信長に滅亡された後も真田家を残そうと昌幸

は織田家に仕えました。本能寺の変で亡くなった後は自立して大名となり

ましたが小さい真田家を守る為に北条家や徳川家そして上杉家と力の強い

大名を主君として仕え最後は天下を取る豊臣家に仕えました。

大阪と東京の中間の長野県という位置が非常に難しい場所で上記の

大名のまさに争いの構図に巻き込まれながら、存続していきます。

武田家の滅亡や信長の死など予測も出来ないところで本当にどこに

仕えるか判断が難しかったでしょうね笑い泣き

 

さてこの上田城は2度にわたり人数で負ける徳川軍を相手に

真田昌幸は撃退しております!!

上田合戦と呼ばれ1次は真田軍2000に対し徳川軍8000

2次は真田家3000に対し徳川家38000と言われおります。

2次は関ヶ原の戦いに参加する徳川秀忠軍を上田城で

足止めした事で有名です!!

地を利用して相手方を有利な場所まで誘い込み急襲する戦法

をしたそうです。歴史でも実際に戦いがあった城なので当時に

思いをふせますね~。

ちなみにこの上田城は天守はありません。本丸跡に石柱が

あるだけでした。

梯郭式平城なので上田城は本丸・2の丸・3の丸だったそうです。

下のような感じです。

※2の丸の外に3の丸

 

東虎口櫓門を抜け先に進むと左手に真田神社があります。

上田城は城主を真田家から仙石家そして江戸時代中期から

松平家になり元々は松平家の先祖を祀った神社だったそうです照れ

境内に真田信繁(幸村)の兜が  デカガーンビックリマーク

 

真田家は関ヶ原では親子で戦いましたえーん

豊臣家についた昌幸と信繁(幸村)

徳川家に信幸(信之)

※上田合戦などによる徳川家との不仲を改善し緊密な関係に

 する為に豊臣秀吉が徳川家の小松姫と婚姻させたそうでう

 

信繁(幸村)は関ヶ原で敗戦後、和歌山県に幽閉され父昌幸も

亡くなります。その後豊臣家の参戦の呼びかけに応じ

大阪の冬の陣、夏の陣にて徳川家康と戦います。

特に夏の陣では伊達政宗軍と戦い退け、さらに数で劣るため

真田隊は10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ後方に陣取る家康めがけて

本陣まで突入したそうです。

しかし兵力で勝る徳川勢に兵力が消耗し負けてしまいますえーん

その活躍を認められ日本一の兵【ひのもといちのつわもの】と称されました。

 

長男の信幸(信之)ですが徳川家と反する父(昌幸)と弟(信繁)と家康との

間に挟まれ苦労した人ですショボーン

関ヶ原の戦いでは上田城を攻めて負けたのですが、戦いで徳川家が

勝利した為、上田領地をもらい1大名として真田家を存続させていきます。

負けた父・弟も処刑されず幽閉で済んだことは信幸の働きがあったからだと

言われてます目

その後上田から松代藩の藩主として財政的に裕福な藩として繁栄し

93歳の非常に長生きをして2代目将軍徳川秀忠から信用を得たそうですニコ

この信幸(信之)さんが居なかったら真田家は滅亡してましたね~

 

詳しくは池波正太郎さんの書いた

【真田太平記】

でより真田家を好きになると思います

 

また上田城をもっと知りたい方は下記ダウン

http://www.pcpulab.mydns.jp/main/uedajyo.htm

 

余談。。。帰りのSAエリアで

信玄餅にアイスが!!!!      2種類

開けるとこんな感じ。かなり信玄餅の味を壊さずアイスに仕上げた

見事な出来栄えです。是非ご賞味あれ