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日本における検閲

近代以降では、戦前内務省や、連合国占領下の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって検閲が実施されていた。 検閲は大きく分けて事前検閲と事後検閲の2種類あるが、日本において大日本帝国憲法下で行われたものの多くは事後検閲であった

現在の日本において、検閲(行政による事前検閲)は日本国憲法第21条によって原則として禁止されているが、わいせつ物頒布等の罪 (刑法175条)や有害図書指定などとその適用が「事実上の検閲」であるとの批判もある

江戸時代

江戸時代から出版が盛んになるにつれて江戸幕府も検閲に乗り出すようになった。初期はキリスト教や幕政批判、江戸幕府ならびに徳川氏の事績に関するものが発禁の対象だったが、寛政の改革では風俗を乱すものや贅沢な出版物も対象となった。版木を没収されたものでは林子平の『海国兵談』、山東京伝の『仕懸文庫』、恋川春町の『金々先生栄華夢』などが有名である。天保の改革では、為永春水、柳亭種彦らの人情本や好色本などが版木没収に遭った。

 

実在の事件や人物を題材にすることは幕府への批判に繋がるとして禁じられていたことから、歌舞伎においては規制逃れとして仮名(羽柴秀吉を真柴久吉とするなど)を使ったり過去の出来事(「仮名手本忠臣蔵」は南北朝時代という設定とするなど)という設定で上演されていた。

大日本帝国憲法制定後

概説

大日本帝国憲法(明治憲法)は第26条で「信書ノ秘密」を、第29条で「言論著作印行集会及結社ノ自由」を定めていた。

大日本帝国憲法第26条
日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ
大日本帝国憲法第29条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

しかし、明治憲法の表現の自由は法律の範囲内における自由とされていたため、実際上、法律によって広範な制約が加えられていた[3]。具体的には、出版法1893年)、新聞紙法1909年)、治安維持法(1925年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論、出版、集会、結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動は強く規制されていた[3]

1930年の検閲基準としては以下のようなものがある。

  1. 皇室の尊厳を冒涜する事項
  2. 君主制を否認する事項
  3. 共産主義、無政府主義等の理論乃至戦略、戦術を宣伝し、もしくは其の運動実行を扇動し、又は此の種の革命団体を支持する事項
  4. 法律裁判所等国家権力作用の階級性を高調し、その他甚しく之を曲折する事項
  5. テロ、直接行動、大衆暴動等を扇動する事項
  6. 植民地の独立運動を煽動する事項
  7. 非合法的に議会制度を否認する事項
  8. 国軍存立の基礎を動揺せしむる事項
  9. 外国の君主、大統領、又は帝国に派遣せられたる外国使節の名誉を毀損し、之が為め国交上重大なる支障を来す事項
  10. 軍事外交上重大なる支障を来す可き機密事項
  11. 犯罪を煽動、若は曲庇し、又は犯罪人、若は刑事被告人を賞恤救護する事項
  12. 重大犯罪の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙に依り社会の不安を惹起するが如き事項(特に日本共産党残党員検挙事件に此の例あり)
  13. 財界を攪乱し、この他著しく社会の不安を惹起する事項

1933年には次の二項が付け加えられた。

  1. 戦争挑発の虞ある事項
  2. その他著しく治安を妨害する事項

内務省による検閲

内務省警保局図書課、1940年12月検閲課と改称し情報局第4部第1課兼務)は、讒謗律新聞紙条例出版法新聞紙法映画法治安維持法などに基づき、書籍、新聞、映画の記事・表現物の内容を審査し、不都合があれば、発行・発売・無償頒布・上演などを禁止や一定期間差止する検閲を行った(放送に関わる内容については、逓信省および、のちに加えて情報局が所管した。後述)。行政処分として現物の没収・罰金、司法処分として禁錮刑を行った。戦前期日本における検閲は行政処分が突出していた点で諸外国にほとんど例を見ないことが認められ内務大臣の行政処分が,司法審査をも完全に排除し,最終的な判断としての強制力を持っていた点に,その特質があった」

日露戦争のあと、内務省逓信省に通牒し、極秘のうちに検閲を始めた。

1928年には検閲に関する内部資料『出版警察報』が刊行されたことで、これ以降の検閲については詳細な記録が残っているが、1923年9月1日に発生した関東大震災により内務省も被災、発禁となった図書類や資料などを保管していた倉庫が火災で焼失したため、1923年以前の検閲に関しては不明な点が多いという。

内務省の検閲対象は民間であり、軍部やその外郭団体は管轄外であった。

1941年昭和16年10月4日に、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)が制定されて、法令上の根拠に基づくものとなった。

新聞

法律によって解釈される新聞は、一定の題号を用い、期間を定め、または6か月以内の期限で期限を定めず発行される著作物で、同一の題号の新聞を他の地方で発行する場合はそれぞれ別種の新聞とみなされ、発行人は保証金を納入して許可を受けた。検閲の眼目は安寧秩序を乱し風俗を害するものに向けられ、これに違反したものは発売を禁止された。発行と同時に、内務省2部、管轄地方官庁、裁判所検事局へそれぞれ1部を送って検閲を受けた。雑誌は月刊物で新聞紙法によって発行されるものは同様の取り締まりを受けた(明治42年5月法律41号、明治43年4月内務省令15号)。

書籍等

著作物は、出版法による文書、図書を発行したときは発行3日前に内務省に製本2部を納本する必要があり、書簡、通信、社則、引札、番付、写真などは内容が取締法規に触れないものに限り届出が省略された。検閲にあたって当局は、内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収することができた(明治26年4月法律15号、明治43年4月法律55号、昭和9年7月内務省令17号)。

労働問題については1926年ごろから社会活動家で労働問題研究所の高橋貞樹などが、工場の労働条件、設備、組合、青年同盟、政党の問題、青年労働者の待遇と要求、内外の出来事を報じる「工場新聞」の編集・頒布を推奨していたが[11]、1930年に同様の趣旨で新人社が出版した書籍であるドイツXX党『工場新聞』は内務省が発禁処分をした。

脚本

編集

脚本の検閲は、演劇興行の用に供する場合、当該地方官庁の取り締まりを受ける。したがって、興行の用に供さない脚本は取り締まりの範囲外であるが、願出の場合はそれぞれ規定の形式があり、1ページ30字詰以内(活字刷のものは除く)として明瞭に記載することとされた。脚本の認可の印を押捺されたものは3年間の有効期間を有し、この検閲には、教育上の悪影響、国交親善を阻害するなどの項目に特に注意された(大正10年7月警視庁令15号)。

映画の場合、脚本段階から細かい検閲が行われ、1925年大正14年)の雄呂血』のように体制批判ととれる字幕は即削除、1943年昭和18年)の『無法松の一生』のように無法者が主人公であったり、賭博やけんか、身分違いの恋情などが描かれていれば内務省から「好ましからず」との注意付箋がつけられた。これに沿って修正しても、完成フィルムで「検閲保留」とされれば現状では上映できなかった。

 

フィルム

フィルム活動写真)の検閲は取締を受けるものは観覧の用に供するもののみであった。説明台本2部を製作し、内務大臣に届け出ることが必要で、儀式、競技、時事を写実したもので、特に急速を要するものは映写地の地方官の許可を受けることができた。フィルムの長さは制限がないが、上映の場合は興行に対して無声版は5,750 m、発声版は6,000 mが限度であった。検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3か月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正11年7月警視庁令15号。大正14年3月内務省令10号)。

戦時体制下の1939年(昭和14年)、より拘束力の強い映画法(昭和14年4月5日 法律第66号)が制定され、制作段階での検閲が可能となり、国策に反する作品の制限や、国策に沿った作品づくりと製作本数の義務化などがなされた。

現在、映画脚本用とフィルム用の検閲印は東京国立近代美術館フィルムセンターで保存されており、展示室で公開されている。