ヨッヘンリント | 鈴木いつみ ♨️

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カール・ヨッヘン・リント

Karl Jochen Rindt

1942年4月18日 - 1970年9月5日 ドイツ生まれオーストリア国籍のレーシングドライバーである。1970年のF1ワールドチャンピオン

 

 

1970年のシーズン途中、全13戦中の第10戦イタリアGP予選での事故で死亡したが、それまでに獲得したポイントを超える者が現れなかったため、死後にチャンピオンが確定した。

現在も、F1のドライバーズチャンピオンを死後追贈されたのはリントただ一人である。激しい攻めの走りと圧倒的なスピードを見せる、ファイタータイプのドライバーとして知られた。その勇猛果敢な走りのスタイルや強面の容貌も相まって「タイガーとの俗称を受けた。しかし実像は物静かで知的な人物だったと評されている。ドライバーとして活躍しただけではなく、レースやレーシングカーショーの主催者としての活動も行っていた。

 

 

ドイツのマインツで生まれたが両親を第二次世界大戦のハンブルク空襲で失い、オーストリアのグラーツで母方の祖父母に育てられた。

1961年にF1第6戦ドイツGPを観戦、そこでヴォルフガング・フォン・トリップスの走りに魅せられ、レーサーになることを決意した。祖父母は、当初リントをレーサーにすることには反対であり、無理やり大学に入れたこともあった。しかしレースに熱中し、学業には全く興味を持たない様子を見て、最終的には折れて反対しなくなったという。

クーパー / ブラバム時代

1965年ドイツGPにてクーパー・T77 をドライブ

 

F2で活躍した後、1964年に地元の第7戦オーストリアGPでロブ・ウォーカー・レーシング・チームからF1にスポット参戦した。

1965年にはクーパーで本格デビューし、2度の入賞を記録した。またこの年のル・マン24時間レースでは、マステン・グレゴリーと組んでフェラーリから参戦し、優勝を果たした。

この頃、コンノートの元オーナーだったバーニー・エクレストンと知り合い、個人マネージャーを依頼する。ふたりは深い信頼で結ばれ、後にロータスF2チームを共同運営することになる。

1966年は旧式のマセラティエンジンを搭載したマシンで好走。2位2回などでランキング3位を獲得し、将来のチャンピオン候補として注目される。しかし、1967年は10戦中4位入賞が2回のみ、他は全てリタイヤに終わった。

1968年はブラバムへ移籍。全12戦中、予選で2度のポールポジション(PP)獲得と速さを見せ、決勝でも3位を2度獲得したが、他は全てリタイヤに終わる。

このように速さは見せていたものの、その激しい走りから自身のミスやマシントラブルを多く招き、好成績をコンスタントに挙げることはできないでいた。

ロータス時代

1969年ドイツGPにてロータス・49Bをドライブ

 

1969年にはロータスに移籍、第9戦カナダGP終了時でPPを4回、ファステストラップ(FL)を2度記録していたが、優勝経験はないままだった。トップを走行しながらリタイヤしたレースも多かったことから、クリス・エイモン以上に「勝てそうで勝てないドライバー」として認識されていた。

第10戦アメリカGPでは、シーズン5度目のPPを獲得。決勝は一時ジャッキー・スチュワートの先行を許すも、その後トップに返り咲いて初優勝を達成し、「勝てそうで勝てない」の汚名を返上した。

1970年オランダGPにてロータス・72Cをドライブ

死後のチャンピオン決定

1970年にはグラハム・ヒルの移籍によりロータスのエースドライバーに昇格。斬新なウェッジシェイプボディをまとうロータス・72を得て、念願のチャンピオン獲得に向け快進撃を見せる。

第3戦モナコGPではレース終盤に15秒先行するジャック・ブラバムを猛追し、ファイナルラップの最終コーナーで抜いて優勝するという歴史に残る大逆転劇を演じた。この時のマシンは旧型のロータス・49

この周回で記録したファステストラップは自身の予選記録よりも2.7秒速く、ジャッキー・スチュワートのPPタイムさえ0.8秒上回っていた。ブラバムが優勝すると思っていた競技長のポール・フレールはチェッカーフラッグを振り忘れた。リントは表彰式でモナコのロイヤルファミリーから祝福され、男泣きした。

第5戦オランダGPでは親友ピアス・カレッジの事故死を乗り越え、ここから第8戦ドイツGPまで4連勝を記録した。イギリスGPではモナコGPを再現するように、最終ラップにガス欠を起こしたジャック・ブラバムをかわして優勝するというツキもあった。

モンツァで行われる第10戦イタリアGPを迎えた時点で、計5勝を挙げたリントはランキングで2位以下を大きく引き離し、残りの4レースどれかで優勝すればチャンピオンが決定するという状況だった。金曜日のプラクティスで、チャップマンとリントは空気抵抗を減らしトップスピードを上げるためウィングなしで走行することにした。リントのチームメートであったジョン・マイルスは、ウィングなしでの走行は「まっすぐに走らない」と不満を表していた。しかし、リントは「そのような問題はない」と報告した。チャップマンはリントがウィングなしだとストレートで800 rpm 速いと報告した。

9月5日の予選走行中、リントのロータス・72は最終コーナー「パラボリカ」手前のブレーキングで突然姿勢を乱し、コースアウトしてノーズからガードレールに激突。リントは両足が見えるほどに大破したマシンの中で死亡した。ほぼ即死の状態であったという。

死亡時は28歳だった。

 

その後、大きくポイントでリードしていたリントを上回る者が現れないままシーズンが終了。ロータスに抜擢された新人エマーソン・フィッティパルディがリントの死後に予想外の好成績を挙げ、ライバルのポイント加算を妨げたのも亡きリントへの援護となった。

その年のドライバーズチャンピオンを誰にするかが議論となったが[3]、結局ポイントリーダーであるリントをチャンピオンとすることになった。この年リントが獲得したポイントは、全て優勝によるものであった。皮肉なことに、リントは妻ニナにチャンピオンになったら引退すると約束していたという。墓はオーストリアのグラーツ市の中央墓地にある。

F1などモータースポーツでは前年度のチャンピオンがカーナンバー1を付けることが多いが、リントの死去に伴い翌1971年シーズンはカーナンバー1が欠番となり、ロータスのエマーソン・フィッティパルディがカーナンバー2を、レイネ・ウィセルがカーナンバー3を付けて開幕を迎えた。