アロウズ | 鈴木いつみ ♨️

鈴木いつみ ♨️

鈴木いつみ weblog for example

 

アロウズ・グランプリ Arrows Grand Prix International

かつてF1に出走していたチームおよびコンストラクター。チーム名の由来は、チーム設立にかかわった、フランコ・アンブロジオA  アラン・リースR  ジャッキー・オリバー(O  デイブ・ウォスのW  トニー・サウスゲートの(Sの頭文字をとったものである。日本企業が支援した時期はフットワークの名でも知られた。

 

最盛期

2008年グッド・ウッド・フェスティバルでエディー・チーバーがドライブするA10B

その後、1980年代中盤にアメリカの損害保険会社のUSF&Gがメインスポンサーにつき、財政状況が向上した。

この様な状況の変化を受けたアロウズがコンストラクターズランキングで最も上位になったのは、メガトロンエンジン(BMWの市販バージョン)を搭載した1987年シーズンからであった。特に1988年にはデレック・ワーウィックエディー・チーバーの元ルノーのセカンドドライバーコンビが活躍し、イタリアGPではチーバーが3位表彰台を獲得、ワーウィックは表彰台こそ無かったものの、4位入賞の他、数回入賞した。最終的な順位は4位であったが、実はシーズン最終戦を終えた時点では6位となっていた。

しかし、ベルギーGPベネトンの燃料規定違反による失格裁定が確定すると、このレースで7、8位フィニッシュしていたアロウズが繰上げで5、6位となり、この3ポイントがきいて、同点で並んでいたウィリアムズや2点先行していたマーチをかわし、ロータスと並ぶコンストラクターズ4位に躍進することとなった(当時は現在と異なり、ポイント圏外の成績までを考慮した順位ではなかった)。

ターボエンジンが禁止された翌1989年は、コスワースの市販エンジンを搭載し勢いは落ちたもののマシンバランスはよく、地元アメリカではチーバーが3位表彰台を獲得。ワーウィックはこの年も表彰台獲得こそなかったものの、5位・6位入賞数回とところどころで光る走りを見せた。

フットワーク時代

1990年に日本の運送会社のフットワークがメインスポンサーとなり、後にフットワークがチームを買収した。翌年の1991年からは、チームとして、1992年からはコンストラクターとしても「フットワーク」を名乗った。

1991年、かつてマクラーレンと組んでチャンピオンを獲得したポルシェに製作させたV12エンジンを使用してシーズンをスタートした。しかし、このエンジンは実際、マクラーレン時代のTAG V6エンジンを、ターボを外して単純に2つ並べてつなげた程度の代物で、当初チームに知らされていた寸法と実際に届けられたエンジンの寸法が異なるという前代未聞のエンジンであった。さらに他のエンジンに比べて大きく重い上、信頼性に欠け、シーズン途中で前年まで使用していたコスワースDFRV8エンジンに換装するというドタバタを演じた。 当然この年の成績は振るわず、F1参戦以来初(結果的には25年間で唯一)となる年間ノーポイントに終わった。

1992年には無限V10エンジンを使用。これに伴い、鈴木亜久里がチームに加わる。エースドライバーのミケーレ・アルボレートがリタイアわずか2回という堅実な走りでチームを引っ張った。7位が6回とすんでのところでポイント獲得を逃すことが多かったものの、対照的に、亜久里は駆動系などにトラブルを多く抱え、シャシーも長身の亜久里に合わないなどの問題があり、入賞することが出来なかった。但し、当時はまだHパターンのギヤボックスが主流であった中、シーケンシャルタイプのギヤボックスを開発するなど技術的な進歩も見られた。

1993年にはシーズン途中でマクラーレンからアクティブ・サスなどのハイテク装置を購入すると、それまでと比べ予選順位が両ドライバー(3年ぶりF1復帰のワーウィックと残留した亜久里)とも10ポジション程度アップした。弱点であったハンドリング不良が消えて戦闘力は大幅に増したが、レースではギアボックスにトラブルが続出してなかなか結果に結びつかなかった。

そしてシーズン終了後、親会社のフットワークの業績悪化からチームを手放さざるをえなくなり、ジャッキー・オリバーが再びチームオーナーとなった。

 

井上隆智穂がドライブするFA16 1995年

 

 以降チーム名は以前のアロウズを名乗ったが、コンストラクターとしては1996年までフットワークと名乗り続けることになる。1994年にはジャンニ・モルビデリクリスチャン・フィッティパルディを、1995年にはモルビデリ(途中数戦はマッシミリアーノ・パピス)と井上隆智穂を起用したが、この頃には予算不足でマシンの信頼性、戦闘力も上がらないうえ、テストもまともに行えないなど低迷期を迎えることとなる。

TWR時代

1996年の序盤に、ベネトンリジェを率いていたトム・ウォーキンショーがチーム買収に成功。チーム運営もスポーツカーレースで数々の好成績を収めていた「トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)」が行うこととなり、コンストラクターズ名称もアロウズに戻った。

デイモン・ヒルがドライブするA18 1997年

 

 1997年には、著名デザイナーのジョン・バーナードと、前年にウィリアムズでチャンピオンになったデイモン・ヒルを獲得し、A18はカーナンバー"1"を纏った。エンジンはヤマハ、タイヤはブリヂストンと奇しくも日本関連の陣容となった。開幕当初はヒルをもってしても苦戦が続いていたが、ハンガリーGPで快走を見せ、ファイナルラップ途中でマシントラブルによりジャック・ヴィルヌーヴに抜かれるまではトップを独走していた(最終的には2位でフィニッシュ)。

しかし、TWR傘下のハートとの軋轢からヤマハが撤退し、ヒルも1年限りで移籍。バーナードの意欲作A19も成功しなかった。1999年はナイジェリアのマリク王子と投資銀行モルガン・グレンフェルが経営参加し、「t-minus(ティーマイナス)」という謎のブランドを提唱。日本人ドライバーの高木虎之介が加入したが、予選ではバックマーカーが定位置となりチームとしてわずか1ポイントの獲得に終わる。

2000年はOrangeのメインスポンサーを獲得し、スーパーテックエンジンを搭載。直線スピードの速いA21で意外な好走を見せた。

2001年にはプジョー改めアジアテックエンジンの無償供給を受けるものの、成績は低迷。わずか1ポイントの獲得に終わる。

2002年フランスグランプリ予選

 

2002年はフォード・コスワース・CRエンジンのカスタマー供給を受け、さらにはニューマシンA23の出来が良く、新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンがしばしば好走を見せたが、資金難は悪化する一方でモナコGPでは撤退の話が出た。当時ウォーキンショー代表は明確に撤退を否定したが、イギリスGPで再度撤退するのではないかとの噂が流れた。次戦のフランスGPでは両ドライバー共に予選アタックを全開で行うことなく「予定通り」に予選不通過となる。結局、ドイツGPを最後に一時休止の決断をするが、その後復活を果たすことなく、足掛け25シーズンにわたるアロウズのF1参戦は終止符を打った。

その後

TWRの倒産後、アロウズの工場はアメリカのメナード・エンジニアリングが購入し運営を行っており、2006年から2008年にかけてF1に参戦していたスーパーアグリF1チームが、同工場を活動拠点として使用していた(メナードからのリース)。他にもスーパーアグリは、初年度のマシンとなる「SA05」「SA06」に2002年にアロウズが使用した「A23」のモノコックを流用していたほか、スタッフも旧アロウズに所属していた人間が多数を占めるなど、アロウズと密接な関係を持っていた。スーパーアグリ撤退後はケータハムが利用したが、同チームもやはり最終的に破産へと追い込まれており、関係者の間では「呪われたファクトリー」と呼ばれるようになり、現在では放棄されて空き家のままとなっている。