1940年オリンピック | 鈴木いつみ ♨️

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1940年東京オリンピック 

1940年昭和15年)に日本の東京府東京市東京都区部東京23区で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである

    史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、支那事変の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった

 

当時アジアにおける数少ない独立国で、かつ五大国の一つである日本の首都の東京での開催は、1936年昭和11年の国際オリンピック委員会 IOCで決定し、それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変の勃発や部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年7月にその実施の中止を決定した。1940年大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。

日本は第二次世界大戦での敗戦後、1960年昭和35年)の夏季大会に東京を開催地として再び五輪開催地として立候補、東京での開催は「東京五輪」として1964年昭和39年に実現した。これがアジアで初であると同時に、有色人種国家初のオリンピック開催となった。また、1964年大会から56年が経った2020年にも東京で五輪が開催されることが決定している 2020年東京オリンピック参照

 

意思表示

1929年(昭和4年)に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟(IAAF)会長・ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本での五輪開催は可能か否か、という話題に花を咲かせた。このエピソードが東京市当局や東京市長・永田秀次郎にも伝わり、にわかに五輪誘致の機運が高まってきた。

1930年昭和5年)にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。

1931年昭和6年10月28日、東京市会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および明治神宮外苑を充てるとした。

永田は欧州駐在特命全権大使公使、さらにはジュネーヴ国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。

立候補

1932年(昭和7年)に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ イタリア  バルセロナ スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド  ブダペスト ハンガリー)、アレクサンドリア エジプト  ブエノスアイレスアルゼンチン)、リオデジャネイロブラジル)、ダブリンアイルランド)、トロントカナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。

1940年大会の開催地を決定する1935年にオスロ ノルウェーで開催されたIOC総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった。当時は、開催都市はその5年前の総会で決定するルールであった。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インドアメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。

東京市は前者に関しては、例えばフランスマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。

招致成功

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副島道正アンリ・ド・バイエ=ラトゥール 1936年

 

 

開催準備

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大会組織委員長の徳川家達公爵

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駒沢オリンピック公園

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オリンピック旗を製作する業者(1936年9月)

大会組織委員会成立

日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初の五輪招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。

会場建設編集

主会場には、明治神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画(明治神宮外苑競技場の改築)したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したために、利便性の高い都心への建設をあきらめざるを得なくなった。

その後、大会組織委員会を中心に主会場の代替建設地の検討が急ピッチで進められた結果、交通の便が極めて悪い郊外であるものの、周辺にしかなく敷地に余裕がある東京府荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地(今日の駒沢オリンピック公園敷地にメインスタジアムを建設することとなった。また、ボート自転車射撃水泳などの、専用施設を必要とする競技の競技場の計画及び建設も進められた。

周辺準備

その後は様々な開催準備が進行し、東京や海からの窓口となる横浜を中心とした道路の建設や都市美観工事、ホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などの周辺準備が計画、実行され、これに対して政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が支出された。

また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。

万博開催

さらに、紀元二千六百年記念行事の一環としての「紀元2600年記念日本万国博覧会」も同年開催が予定されたことから、勝鬨橋の建設など、会場となる晴海近辺の整備が行われた。

冬季五輪招致成功

日本政府は、夏季オリンピックの東京招致に併せて、冬季オリンピック札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季五輪として札幌オリンピックが開催されることに決定した。これもアジア初かつ有色人種国家初の冬季オリンピック開催となった。

実施予定競技

1937年昭和12年6月にワルシャワポーランド)で開催されたIOC総会では、下記の競技の実施が決定した。

•    陸上競技

    •    競泳

    •    飛込

    •    水球

    •    蹴球

    •    ボート

 

•    ホッケー

    •    拳闘

    •    体操

    •    篭球

    •    レスリング

    •    セーリング

 

•    ウエイトリフティング

    •    重量挙げ

    •    自転車

    •    馬術

    •    フェンシング

    •    射撃

 

•    近代五種競技

    •    芸術競技

    •    柔道(公開競技)

    •    野球(公開競技)

    •    滑空競技

東京五輪の開催期間は、1940年9月21日から10月6日までの日程が予定されていた。

開催権返上へ

国内からの反対意見

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河野一郎

   このように開催に向けた準備が進む一方で、1937年3月に衆議院予算総会で河野一郎政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」と発言。実際に前年までヨーロッパアフリカでは第二次エチオピア戦争が起きており、またこの発言のその4か月後に盧溝橋事件が起こり、その後日本軍中華民国国軍の戦闘区域が拡大し「日中戦争」と呼ばれるようになると、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えた。また各種団体からの満州国選手団の参加を求める抗議行動が続いていた。

1938年に入ると日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきた[13]。さらに陸軍大臣杉山元が議会において五輪中止を進言し、河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまで五輪開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞東京朝日新聞などでは、五輪関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。

さらに、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣近衛文麿公爵は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中に五輪の中止が明記されていたことから、事実上五輪の開催中止が内定した。

国外からの反対意見

1938年3月にカイロ エジプトで開催されたIOC総会では、ベルリン大会組織委員会事務総長のカール・ディームが聖火リレーの実施を提議し、各国から実施の要望がなされるなど、開催へ向けて準備が進んだ上に、聖火リレーのルートに満州国を入れることで、当時イギリスやアメリカ、ソビエト連邦などの中国大陸での利権をめぐり日本と対立していた国の反対でオリンピック委員会への加盟がかなわず、そのために参加が危ぶまれていた満州国選手団の参加に弾みをつけた。

しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権のみならず、日独伊防共協定を巡り日本と対立していたイギリスやイギリス連邦を構成する自治領オーストラリアニュージーランドだけでなく、大会開催権を争って敗北していたフィンランドからも、東京開催の中止と「漁夫の利」を目論んでのヘルシンキでの代替開催を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国も開催都市変更を要望してきた。

このような状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という外国の委員の質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。

また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任する事態となった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥールから日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。

返上決定とその後

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開催返上を報告するオリンピック組織委員会(1938年7月)

さらに1938年5月、東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途、氷川丸船上で病死するに至り、日本政府は7月15日、閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円(2017年8月現在の価値で約23億4千万円)にのぼる。

代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1936年昭和14年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになる。

こうして五輪の準備は一先ず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県北足立郡戸田村、現戸田市)のボートコース戸田漕艇場)は1939年までに完成し、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。

なお中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、皮肉にも1964年大会開催に当たって池田内閣建設大臣(五輪関連施設や道路の建設の指揮監督を担当)および五輪担当国務大臣を務めた。

 

付記

  本大会開催が決定した1936年7月31日のIOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが「五輪」言い換えの始まりである。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、オリンピック旗の五つの輪と宮本武蔵五輪書』からこの略称を思いついたという。