通りすがりの午前一時の雑記

通りすがりの午前一時の雑記

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午前一時。

 

人種や国ごとで人を好いたり、嫌ったりする人がいる。

少なくない。

私はそうなりたくない。

 

何かと自国のスターの偉業を自分のことのように誇る人がいる。

組織に個人として帰属意識があり、その帰属意識をスターにもあると考え、スターの偉業が組織に帰属すると思い、恥ずかしげもなく自分が誇る。賞賛とは違う。虎の威を借る狐のよう。

同じように、何か昔の遺産の数を挙げ、どこかと比べ、うちは伝統を重んじると言い張るが、大事にしてきたのはお前じゃない。

 

そういう人(達)がいたのは事実であり、その人(達)を賞賛することは全うだ。そしてその人(達)が、伝統を重んじ大切してきましたと、いうのなら、それはその人(達)が誇るべきものだ。

 

例えば、サッカーのサポーターが自発的にゴミを拾う。日本だけだ、日本素晴らしい。という感じもそうだ。

 

終着点が間違っていることがわからないのか?

確かにその人たちの行いは、悪いことではない、だろう。その人たちが賞賛されるのはわかる。

しかし実際そうせずに帰った日本人もいる、だろう。

なぜ、日本人としての手柄になるのかよくわからない。

俺ではない、お前でもない、ただただ、ごみを拾ったサポーターを賞賛した。我々ではない、その人たち、ただそれだけだ。

悪いことでも、そうだろう。

何かにつけて、~人は皆、~する人は皆~。という論調がある。

 

私はそういう人になりたくない。

私はそういう風に見られたくない。

 

ただの、個人だ。

午前一時。

 

僕の目には物体が写る。

それを僕は認識している。

物体に名前が付けられる。これはパソコン。机。ソファ。腕、手、指

叩いて、音が鳴る。

 

。 これは読点。

 

水。 わかる?

? ?

人間、言葉、作る

使う

 

君。人。

僕。人。

 

人と人は同じ、僕と君同じ。

違うでしょ?

なぜ?

 

すべて、決めつけ。

本当はそんなものないんだ。

 

ないものを、伝えることができるなんて、おかしいだろ。

ただの遊び。

 

僕は伝えたようで、君は伝わったようで、

その感覚だけはほかの何より確かなようで。

でも、これは決めつけられてないようで。

その余地が、僕にはとても小さく、大きく、無限にも無にも思えた。

 

午前一時。

 

働きはじめ、一日の流れがわかるようになった。

 

起きて、食べ、座り、食べ、座り、食べ、浴び、寝る。

時間があっても、結局座っているだけだ。

 

休日も。

起きて、食べ、 食べ、 食べ、 浴び、寝る。

休みというただの空箱の中にいる。

 

明日も、明後日も、しあさっても、何年も、何十年も、そして、死んでいく。

 

毎日、クライマックスのない映画を何十周もみるような。

僕はヒーローでもなく、大切にするものもなく、特殊な力もなく、どこにも行かず座っている。

 

この映画を20000回以上みて、生を終えるのは、面白くないのは確かであるが。

困ったな。なにか、面白くないってのとは全く違うもののせいで、動けないと思ってしまう。

 

でも、この映画は大人気みたいだ。

みんな見ている。

面白そうと思い込もう、と目をかっぴらいて。わかっているのに。乾いて、涙が滲む気もする。

 

そうであることと、そうであると思うことの決定的な差は、自分の中で認めざるを得なかった。

自分の隣にいる自分を見て、やはりただ座っている。

君もそうだろう。

 

午前一時。

 

祖父が本日、癌と診断された。

祖母も父も泣いたそう。その気持ちは、想像することや、他人の拝借で表現はできるが、私にはわからない。

想像といった時点で分かっていないことがわかる。

 

ただ、このまま祖父が死ぬまで会えないのは、私としてはさみしい。向こうも同じ思いだったらなお一層。

東京にいるので、帰れないかもしれない。しかし、げんきんなものだ。3年も祖父とはあってない。いまさらさみしいなんて。

生きていても別にそこまで会う気もなかったくせに、不思議な承認欲求があるものだなと。

 

父はよく「男なら、泣くな」となにかしらで泣いている私に言って育ててきた。

そういう文脈の上で、私はたまに女になるときがある。父もまた、女になるようだ。初めて知った。

 

祖父は、格好の良い頑固なやつで、戦争にとても興味がある人だという印象。

ずっと西部劇や、戦争映画を見ていたので。経験もあるだろう。

そういうものを通して、死ということにいくらか考えもあるだろう。

 

小学1,2年生の時だったか、私は永遠の黒を寝室に見た気がして、死にたくないと叫びながら母に泣きすがった。

父は、隣で僕の声をかき消すようにいびきを立てて寝ていた。母からすれば地獄だった。思い出すと少しほほえましい。生かしたのも殺したのも両親か。

そんな僕は、短い人生ながら、人の死を数回、目や耳にして、考えた。

たどり着いた答えか決心かは単純なもので。

 

死は別に怖くないものとして生きよう。

と。

 

私の前に死が来るとしたら、怖いのかもしれないが、

目の前にないものをどうこう考えても、捕らぬ狸のなんとやら。

 

なくなる直前、初めて感じる痛みなどはあるかと。それは怖い。

痛いということが痛いと知っていて、それを想像するのも容易で、おそらくそれを超えてくるから、怖い。

 

では、死というものが死と知っていて、それを想像するのも容易で、死を超える死などがあるなら、それは、何か?

ならばその、何か、は僕が思っていたものよりも、気楽かと、私は感じた。

(『ソクラテスの弁明』に共感してしまったのは、私にとっては不愉快なことでもあるが)

 

ただ、やはり

寂しいとは、 、感じている。

ありがとう、とだけ。人間ですから。

 

 

今日は、何か、眠たい。

午前一時。

 

午前一時の反対とは午後一時か?

反対らしく見える

今現在の時刻に12時間を足すか引くかすると、日本の反対側にあるブラジルの国の時刻になる。

 

でも、時間は反対になるか?

ならない。一過性で不可逆。

2021/8/22 14:29 は一回だけ

 

当たり前?

 

でも

 

なんでか僕は繰り返しの中に生きている感覚。

時計って丸いから。元の場所に戻る。

昨日と同じような、憎い自分がまるで、丸で抜け出せないように囲まれている。

数字だけを表すデジタル時計っていうのも、結果的には丸と同じ退屈さと繰り返しがある。

 

誰かが設置し、皆が従うその尺度は、その設置する目的をよく考えないでひとまずの便利性のもとに設置されただけと。

何かしらの不便を伴う。

 

囲まれた時間の中に、自分もとらわれていき、何度も、同じようなものが繰り返される錯覚に陥る、だとか。

 

昨日なんてものも、明日なんてものも8/22なんてものも、2021というものも、ただの尺度で。

そんなものはどこにもない。でも、その一つ一つの尺度は、生み落とされて放置される赤子のような残酷なものであるよ。かわいそうだ、使ってあげる。

 

そういえば、昔から、誕生日で騒ぐ人が不思議だ。保育園のとき、誰かの誕生日と言って、皆が祝う。

気味が悪かった。

その時の誰かが中心な感覚は異常なほどある、信仰というのは恐ろしいなと、後々感じた。

新年のお祝いも同じく不思議。

 

改まって区切る感じが、なぜかまるで丸いような気がする、あまり好きではない。

 

 

人生って、大体何日か数えた?

当然人によって違う、平均寿命で大体30000日くらい。

約720,000時間で、約43,200,000分で約2,592,000,000秒

一過性、足すことはない。

どこからか始まり、一線に伸びて、各々止まる。集まるとちょうど、波のように

 

僕たちは何秒つかって、何をしたか。

当たり前のことが反映されない時計に意味はない、昨日と同じ自分なんてものは昨日ごといない。

線は、ただただ、伸びるだけ。