6月7日(金) 午前5時30分
アラームがうるさいと目覚まし時計を見ると、まだ鳴るのに1時間程早い。
「ん?」と思って、よく見ると鳴っているのはスマホ。
アラームとは違う音だった。
画面を見て着信を確認すると、妹からの電話だった。
「お父さんが亡くなりました。3時半にお母さんが息をしていないことに気が付いた。」
母がトイレの為に目を覚ますと、父は息をしていなかった・・・。
帰省の準備を始めた。
慌てても父の死に目に会えるわけではないので、寝惚けた頭を起こしながら。
荷物をまとめて出発。
新大阪駅や新幹線の中で父が亡くなったことと仕事を休むことを上司に連絡した。
8時半過ぎ、岡山駅に到着。
私の実家の最寄り駅へ行く電車への乗り換えが2分しかなく、次の電車を調べたら、なんと1時間後!
こんなに本数が少なかったっけ?
仕方なくタクシーに乗り、実家へ向かった。
9時過ぎ、実家に到着した。
父の顔を見て、ちょっと安心した。
もう痛みや苦しさから解放されたのだ・・・と。
少し前の『水曜日のダウンタウン』で30-1GPをやっていて、ななまがりのネタがやけに気になっていた。
「しっかりしろ!死ぬな!」と訴えるも、腕の中で息を引き取った友人・・・
死んだ途端に、「死体だ・・・怖い・・・」と豹変するコント。
魂の抜けた父の姿を見ても・・・流石にこうは思わない。
9時半、葬儀場のスタッフさんが来られて、式の打ち合わせが始まった。
3時半から起きて諸々の手続きに奔走した母と妹、5時半に起こされて帰省したばかりの私、
そして駆け付けた叔父の4人で対応した。
通夜・葬儀は、今の主流、家族葬で行う。
父は高齢なので参列者は親族のみだから、どれも「一番安いので良いじゃないの?」で進んだ。
とはいえ、決めるオプションの多いこと!
棺や衣装の値段に驚き、「すぐに燃やすのに?」と思わずにいられない。
母が式を行う会社に会員登録をして事前に積み立てていたので、会員価格での割引があったのだが・・・
それでも、かなりの金額。
家族葬はもっと安くできると思っていた。
15時前、葬儀を行う式場へ到着。
私が思っていた以上に綺麗な会場で、控室は宿泊もできる。
下見に行った妹から「通夜の後、泊る?」と訊かれたが、こんなに素晴らしい施設だとは思わなかったので断ったとこを後悔した。
15時過ぎ、『納棺の儀』。
まず、『湯かんの儀』。
祖父が亡くなって久しく、通夜・葬儀は何をやっていたのかを全く覚えていなかったので、「それは何?」という感じで母・私・妹で立ち会った。
簡単に言うと、御遺体を洗って綺麗にする。
体を洗い、洗髪し、髭を剃る・・・
これ用のバスタブがあり、体を浮かせた状態で上にタオルを掛け、シャワーで流す。
これは初めて見た。
「病院で亡くなると、病院でやってくれるから。でも、ここは病院で亡くなってもやってもらえるらしい。」と母から聞いた。
親族もお湯を掛けたり、足や顔を拭いてあげるなどを行った。
16時半、通夜の司会を行うスタッフと打ち合わせ。
ちなみに・・・喪主は私だ。
何をすればよいのか、全く知らないし、わからない。
親族だけの家族葬なので、気を張る必要はないが・・・。
「挨拶はどうなさいますか?最近は親族の方だけでしたら省かれる方が多いですが・・・」
当然、「省いてください!」。
一応調べては行ったけど、親族だけで堅苦しい挨拶はなしにしたい。
式場の設置が完成したので、見に行く。
会社から花が届いていたので驚いた。
社長、支社長、組合、互助会の4つ・・・有り難いものだ。
18時、通夜式。
祖母、祖父の葬儀に来てもらった住職が来てくれた。
代替わりして翌日の葬儀には息子さんが来られるらしいが、面識がある父の通夜ということで足を運んでいただけたようだ。
「もっと調べておけばよかった・・・」と後悔したのは、焼香の時。
「確か礼をする順とかあったな・・・焼香のマナーはどうだったかな・・・」
チラッと見ただけで記憶していなかった。
喪主が最初にやるので、この辺りは流れのままとなった。
住職が通夜の最後に祖父や父との幼少の頃からの思い出を語り、私の知らなかった一面を聞かせてもらうことができた。
通夜の後は、食事をして終了。
慌ただしい1日が終わったが・・・
大変なのは翌日だ。
この日、20年振りくらいに会ういとこや伯母さんと顔を合わせた。
もう何を話して良いのかわからないな。
実家のある岡山を出て、帰省するのは盆と正月の年2回くらい・・・
コロナでその2回も減っていたからね。
親戚付き合いも少なくなったなぁ。
6月8日(土)
9時、妹の運転する車で式場に入った。
9時30分から『立販』。
軽く朝食を取って来たのだが、ここでも軽くお寿司を腹に入れておく。
夕食まで持たさなければならないから。
しかし、これも前日の打ち合わせで決めたのだが、写真で見るよりも量が多かった。
式が始まる前に住職に挨拶。
前日に来た住職の代替わりした息子さん。
私よりも少し若いくらいだろうか・・・ハキハキとしてしっかりしていた。
11時30分、葬儀告別式。
若い住職だけあって活舌がよく声が響く。
前日の熟練されたお経とはまた違った響きがある。
経が終わると棺桶の中に花を敷き詰める。
父は酒が大好きだったので、コップに入れた日本酒も入れた。
幼い頃、祖母の葬儀で棺の蓋に釘を打った記憶があったのだが、最近は行わないようだ。
替わりに帯をかけて両端をピンで止める。
12時30分、出棺。
私は位牌を持ち、霊柩車の助手席に座る。
霊柩車といえば屋根付きの派手な車を思い浮かべるが、最近は作っていないらしい。
この日も私が乗ったのはリムジンだ。
スタッフさんに案内されて乗ったが、案内がなければ左側から乗ろうとしただろう。
運転するのは式場にいたスタッフの女性。
こんな大きな車を普通の女性が運転するのか・・・と意外だった。
私は、ペーパードライバーなので無理だろう。
13時過ぎ、火葬場に到着。
案内され・・・「この鍵を回すと火葬されます」と。
「俺が回していいの?」と母に訊き、「えぇ・・・」と返事をされ、私が火葬のカギを回した。
本当に恙なく事を進めていたように思う。
火が入った音がした時・・・もっと何か感じるかと思ったが、何もなかった。
約1時間半、火葬場で待つ。
何もすることがない・・・テレビが1台置かれた部屋で待つ。
Wi-Fiさえないとは思わなかった。
1時間半後、アナウンスで呼ばれる。
骨となった父の姿を見て、思ったよりもしっかりとした骨格だったことに驚く。
偏食で小食だったのだが、力仕事がメインだったからかな。
スタッフさんの指示で骨を骨壺に入れて行く。
これが思ったよりも多くて・・・「こんなにいっぱい入れたっけ?」と過去の記憶と比較する。
頭蓋骨に以前クモ膜下出血で手術した後が残っており、スタッフさんに言われた。
こういうスタッフさんは遺骨を見て、どこが悪かったか、何で亡くなったかがわかるとか言うね。
骨壺をいっぱいにして箱に入れ、それを私が持ちタクシーで式場へ戻る。
15時30分、初七日法要
初七日法要・・・だが、最近はここでやってしまうらしい。
そう何度も集まって法事をやっていいられないしな。
ここでは住職と共に親族もお経を唱える。
久しぶりだな・・・配られた経本を開き、住職に案内されたページのお経を読む。
久しぶりにお経を唱えた。
お経が終わると、住職からお話し。
亡くなったものが四十九日かけて・・・とかなんちゃらかんちゃら。
四十九日はそういう意味があるのかと。
こうして、葬儀が終わった。
住職にお礼の挨拶。
ここの住職は明瞭会計で、事前にいくらか伝えてくれる。
これが有難い。
こういう時に包む金額は難しいからね・・・以前、アマゾンで金額を提示して呼べる住職のシステムがあったことを思い出した。
「お気持ちで・・・」が一番難しいし、本当にお気持ちを包んだら住職が思っていたより少なくてトラブルになったという話も聞いた。
16時過ぎ、仕上げ。
母に促され、親族への挨拶、お礼の言葉を述べた。
本当に軽く・・・だが。
けっこうしっかりとした食事が出て、これは正解だった。
出している料亭が、母も知っている美味しいと評判の店だった。
ここで親戚から「いつまで岡山にいるの?」と訊かれ、「明日には帰ろうと思ってます」と。
「早いなぁ~、仕事?」、「いえ、仕事は1週間ほど休めます」。
・・・これ、前日に母から「葬儀が終わったら、のんびりしたいわ~」と言われ、それは京都人の「お茶漬け出しますね」みたいなものなので、「わかった。すぐに帰るよ。」と答えた。
ここ数ヶ月の母の疲労は凄まじいものだったろうから、ここで実家に長居をするのもなぁと思っていたし、何よりここで母に逆らうのは違うかと。
帰りの車の中で「ごめんな・・・」と母から謝られ、「何が?」と訊くと、早く帰ることで親戚の印象が悪くなったのではないかと思ったようだ。
「そんなことで・・・」と思ったが、確かに家族関係が冷めている様には見えるね。
6月9日(日)
昼前には実家を出た。
実家の名義人は私に変えるらしい。
詳しい話は四十九日法要の日に聞くことにする。
相続する遺産も、ほとんどないだろう。
こういう手続きは、母に任せることにした。
次は四十九日法要だが、それが仕事が忙しい名古屋出張の日と被っていた。
1日遅くしてもらえると有難いのだが、住職が「四十九日かけて・・・」とか話していたので、この日にやらなければならないのだろう。
上司に伝えると、「構いません。有給休暇を出してください。」と来た。
有難いが・・・こういう法事よりも優先する仕事ってないな。
同僚に負担をかけるが、ここは休ませてもらう。
しかし・・・7月下旬に黒の礼服で納骨か・・・
夏用の礼服など持っていないので、今から不安だ。
さて・・・
父の死から、1ヶ月が過ぎた。
喪失感はさほど感じることがなく、これは長い一人暮らしの悪影響だなと思う。
・・・何も変わらない生活を送っている。
後悔しているのは、もっと楽に父を送ってあげられなかったものかと。
痛み止めの薬は限界量まで来ていたので、最後の日もかなり痛がっていたらしい。
点滴を止める選択を早くしてあげるべきだったかと思う。
ただ父の意思、母の意思があるだろうし、それと医師の方針との兼ね合いもね。
緩和ケアも、全く痛みがなく送れるわけではなく・・・
思ったよりも大変だったようだ。
父は病院が嫌いで入院したくなく・・・
それを見越した近所の病院の医師がケアしてくれて、自宅で過ごすことができた。
ただ、近くで面倒を看ていた母は限界だった。
昨秋、父が胃癌の手術をして、退院、自宅療養、再発・・・
半年以上、父の面倒を看て来たわけだから。
自宅で死を迎える・・・これの家族の負担の大きさは勉強になった。
火葬場で叔母に言われた・・・
「定年したら、岡山に帰って来るんじゃろ?」
「・・・」
直ぐには答えられなかった。
仕事をしているから関西にいるのであって、ここにいる特別な意味はない。
東京で就職活動をして東京にいるつもりだったが、2月に関西に配属と告げられ、断れずに関西に来た。
好きで来たわけではないが・・・住めば都だ。
岡山には実家があり、墓がある。
帰るべきなのだろうが・・・私の故郷の町には、何もないのだ。
あそこで生活するのか・・・う~ん・・・・・・答えが簡単に出ない。
まぁ、結局、答えを後回しにして、いざという時に困るのだろう。
その答えも数年後には出さなければならないのだが・・・。
私は定年後の父が何をしていたのか知らなかった。
今回、母から畑で野菜作りが好きだったと聞いた。
私が幼いころから近くに畑を借りていた。(無料!)
その畑で野菜作りをしていたらしい・・・ずっと畑にいたと。
私も、「家庭菜園でもできたらなぁ・・・」なんて思っていたので、やっぱり私のルーツなんだと実感した。
その畑は、父が亡くなったことで返したらしい。
父は長生きしたと思う。
酒とたばこをあれだけやって、よく長生きしたと思う。
2024年芸能人・著名人の訃報が多いが、生きた年数だけで比べれば父は勝っている・・・
何も成し遂げていないけど。
私は・・・持病もあるので、父の齢までは生きる自信がない。
それでも・・・父よりも人生を楽しみたいなぁと思っている。
ちゃりお。