6月7日、8日は大学入試。町は無法地帯。
学校の周りには送り迎えの親の車が。好き勝手停め放題。リアウインドにに、大学受験、とプレート乗せてる人までいる。天下御免、ってやつですね。
受験会場にはクラクション禁止の横断幕。無法な駐車を学生と見られる受験ボランティアが間を縫いつつ歩き回ってます。何やってるんだろう。
もう、状元楼(確かそこでメシ食った受験生がトップ合格したのでこの名前がついたニンポー料理の名店)、過橋米線(勉強してる夜食用に橋を渡っても冷めないよう工夫したビーフン)、など、科挙がらみの故事が思い出されます。その頃と変わってないじゃん。
試験内容もそう。
記憶重視、進士様になってかっこいい文章書ければ将来安泰、は過去の遺物。でも同じことやってる。自動読み込み装置でキーワード拾って瞬間に点数がつけられる論述試験に何の意味場あるのだろう。
アジアに創造性がなく、記憶偏重なのは偉大な中国の数千年の歴史、とりわけ科挙の伝統の影響によるのになあ。偉い人のしゃべり方の装飾過多が最上級なのを見ていると、チャイニーズスピーカーとして改めて思い知らされます。
文化に対する概念は、そうそう変らないんですね。がんばって語彙増やさなきゃ。