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巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

歴史散策の楽しみのひとつ。霊場巡りをお気楽に楽しんでいます。

レキササイズって、造語です。
歴史散策をしながらダイエットをしようというところから
レキシ+エキササイズの意味合いで名づけました。
ダイエットもそろそろ頑張ります。

本当はじっくりと味わいたいお寺だったんです。
この日、とにかく巡ることができるだけ巡ろうと、どんどん先に進まねばということで、参拝とご朱印に集中してしまいました。
このお寺、ワタシの好きな中世の武士団、三浦一族の六代目、義村の開基とのこと。
彼の墓は、この近くの金田湾の見えるところにあります。
墓参りが目的できたことがあるくらい興味のある男です。
彼の心は謎が多く、一言で言えばしたたかな男で、大事件をうまくかわして三浦一族を守ってきたと思います。
次の世代で、守りから攻めに転じたものが出たのだと思います。
佐原系列を残し、北条と安達に滅ぼされてしまっています。
ということで、お寺よりも中世のドロドロした歴史に頭の中が飛んでます。
臨済宗建長寺派、慶叔大孝禅師開山。

案内板

福寿寺と三浦義村公
 当寺は岩浦山福寿寺と称し、臨済宗鎌倉建長寺の末寺であります。開山は慶叔大考禅師大和尚で、建暦ニ年三月(一ニ一ニ年)、開基は三浦大介義明の孫に当る三浦駿河守義村で、寺は正治二年(一ニ〇〇年)三月建立とされています。
 御本尊は聖観世音菩薩で、行基菩薩の作といわれています。寺宝として、三浦義村の使用した鞍、鐙、脇差等が保存されております。
 義村の父三浦義澄は源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間、一族を挙げてこれを援けた功を子の義村に譲ったため、義村は右兵衛尉に、そして左兵衛尉となり、駿河守に任じられ、嘉禎四年(一ニ三八年)四月、幕府評定衆に加えられ、武将としては北条氏を凌ぐ勢力で三浦氏の最も隆盛の時代を築いた人であり
ます。
 寿永三年(一一八四年)二月、一の谷の鵯越の山路で迷った時、義村の馬首に日頃念ずる地蔵尊が現れ、義村を導き、頂上に至るや「この坂を下るべし」とのお告げを得て、叔父義連等と坂を馳せ下って大勝を得たと伝えられています。この有難い地蔵を勝軍地蔵と呼び、後に義村は寺の南、即ち南向院に祀ったということであります。
 因みに、義村の遺した鞍に觸れると痳疹が軽くすむといういい伝えが残っています。
三浦市
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-M38_12福寿寺 巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-M38_12福寿寺ご朱印
土足で上がったつもりはなかったのですが、住職さんに怒られてしまいました。
ちょっとイヤな気持ちで後にしました。

ご朱印に日付もないのは、すごく残念です。

2011年5月14日 訪問

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-M38_37福泉寺2 六地蔵が山門で迎えてくれました。

元禄十六年(一七〇三年)十一月二十三日の大津波で流れていったしまったそうです。

現在地の今の本堂は文化十三年(一八一六年)八月に再建されたそうです。

ここなら津波は大丈夫かと思いますが、つい最近大津波を見ているのでわかりません。

2011年5月14日 訪問

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-M38_37福泉寺1  巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-M38_37福泉寺ご朱印

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-海慶寺2  
あれ~、牛頭観音がある。

馬頭観音はよく見ますが、牛頭観音は初めて見ました。


大切にしていた現代の車代わりの馬です。

供養していたのでしょう。


牛だってきっと大切。

ほのぼのとした景色の中にお寺がありました。

好きです。こんな景色が。

2011年5月14日 訪問
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-海慶寺1   巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-海慶寺ご朱印

鎌倉に行ったときに鎌倉の三寺(杉本寺、長谷寺、安養院)といっしょに訪問しようかと思いましたが、鎌倉から歩いて行くには距離がありすぎます。

それで、このお寺だけを目標にドライブして行きました。

意外なコース、住宅地の細い道を進んでいくと岩殿寺はありました。

数年前にチャリで来たときには気づきませんでしたが、駐車場がありました。

そこに車を止めて山門をくぐりました。

ご朱印をいただいたときにパンフレットをいただきました。

長いのですが、このお寺の由緒がよくわかるので、転載させていただきます。
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-岩殿寺1  巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-岩殿寺3

パンフレトより

坂東二番御詠歌
 たちよりて 天の岩戸を おし開き
      仏をたのむ 身こそ たのしき


岩殿寺縁起
 相模国三浦郡久野谷郷(現神奈川県逗子市久本)海前山護国院岩殿寺(現在は海雲山岩殿寺)の由来は今からおよそ千三百年もの昔、大和の国(奈良県)の長谷寺の開山、徳道上人(六五六~七三五)がこの地に下向されたときに始まる。
 徳道上人がこの地の近くまでこられたとき、空に色鮮やかな雲がたなびき地上からはひとすじの光がその雲に突き入るを見た。上人がその光の出どころをお探しになると、そこにはひときわ高く聳える奇岩の峰があり、三方に屏風のような岩がそばだち、中央は平らで絨緞のような苔が生えていた。上人は「ここは清浄無塵の禅窟なり」として、そこに禅床をつくり、坐して勧請された。夜も深まり三更にいたるころ、いずこからともなく十一面観音陀羅尼を唱える声が三方の岩々にこだましつつ聞こえてきた。不思議なこともあるものだなと思いながらさらに上人が陀羅尼を念誦しつづけていると、一方の岩肌に光明がふりそそぎ、十一面観音のお姿が浮かび上がった。そのとき麓より一人の老翁が登り来て、ともにその尊容を拝した。そして上人に向かって申すのに、 「ここは大悲垂応の霊洞です。私はその姿を拝しており、ずっとその尊容をお守りして久しくなります。この地は花を祭る山です。どうか万民のためのよき霊場をつくってやってください」と語り終わると、老翁は掻き消すように姿を消してしまった。上人は、いまの老翁こそ熊野権現の化身にちがいないと感じ、そこで木を伐り石を積んで社を構え、仏城興隆の鎮守として祀られた。そして、麓の村人たちに「この山はのちに大悲の浄刹になるであろう」と説いて大和の国に帰られた。
 その数年後、行基菩薩(六六八~七四九)がこの地を訪ねたところ、やはり同じように瑞光を見てこの峰に登り、大悲者の影向をみたこと徳道上人のそれとおなじであった。行基菩薩は十一面観音の尊像を岩に彫り、この地を永く青門利生の霊場とされた。この寺が徳道上人、行基菩薩を開基とするのはその由縁による。
 当山大悲殿(観音堂)よりは、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより伊豆、房総の半島を一望にできる絶景の地であることから、山号を「海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。
 正暦元年(九九〇年)三月十七日花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧供養御法要を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
 承安四年(一一七四年)四月十八日後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。
 また、源頼朝公が伊豆の蛭ヶ小島で不遇の日々を送っていたころ、当寺の本尊様を篤く信仰し、平家追討の石橋山の合戦での敗戦のおりには当山の観音さまが船頭に姿を変えて海路房州(千葉県)まで案内し、無事に護り導くやいなや、たちまちのうちに観世音の妙容をあらわして三浦に飛び去ったという伝説がある。
 やがて、鎌倉幕府の時代になると、頼朝公は毎月欠かさず参詣され、朱印地を寄進された。当時の記録として文治三年(一一八七年)に頼朝公の姫が参詣、承元三年(一二〇九年)には三代将軍実朝公が参詣されたとある。
 時代は下って、将軍徳川家康公は代官長谷川長綱に命じて境内の整備と田畑山林、諸堂宇の充実をはかられた。
 明治の文豪、泉鏡花は逗子滞在中にしばしば当寺を訪れ、観音堂をモチーフに『春昼』『春昼後刻』などの作品を残した。山門左脇には『句碑』が建立されている。また、観音堂右にある池は鏡花が寄進したものである。
(以上、『吾妻鏡』、『三浦群誌』、『相模風土記』および上地旧家文書による)


ということは坂東三十三観音霊場を定めたのは後白河法皇?

こんな説ともとれるパンフレットに巡り合いました。

この日、どなたかの法事があったようで、境内は人が多く、数年前にはセミの声しか聞こえなかったのと対照的でした。

観音堂は山の中腹にあり、景色はいいのですが、厳しい・・・。

2012年1月28日 訪問
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-岩殿寺2  巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-岩殿寺ご朱印
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-竹庵


昼ご飯は、一度行こうと思っていた、十二所の竹庵に。

みそ煮込みうどんを食べました。


本日、藤沢に行く用事があり、この機会にと、鎌倉周辺の坂東三十三の霊場を二ヶ所巡ってきました。

長谷寺の前も通ったのですが、次の機会にということにして、駅から離れている安養院に行くことにしました。
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-安養院1  巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-安養院2

ここには、何度か訪問していて、駐車場が狭いことを知っていたので、駐車場に車が止めることができたら訪問することにしました。

運よく、一台も止まっていなかったので、訪問できることになりました。

拝観料百円が必要です。

案内板

安養院
 尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。
 延宝八年(一六八〇)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を映します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。

政子の墓というものもあります。寿福寺にも政子の墓と呼ばれるものがあります。

詮索してもしょうがなく、すなおに政子さんの墓参りもいたしました。

2012年1月28日 訪問
巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-安養院3  巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-安養院ご朱印