鎌倉に行ったときに鎌倉の三寺(杉本寺、長谷寺、安養院)といっしょに訪問しようかと思いましたが、鎌倉から歩いて行くには距離がありすぎます。
それで、このお寺だけを目標にドライブして行きました。
意外なコース、住宅地の細い道を進んでいくと岩殿寺はありました。
数年前にチャリで来たときには気づきませんでしたが、駐車場がありました。
そこに車を止めて山門をくぐりました。
ご朱印をいただいたときにパンフレットをいただきました。
長いのですが、このお寺の由緒がよくわかるので、転載させていただきます。
パンフレトより
坂東二番御詠歌
たちよりて 天の岩戸を おし開き
仏をたのむ 身こそ たのしき
岩殿寺縁起
相模国三浦郡久野谷郷(現神奈川県逗子市久本)海前山護国院岩殿寺(現在は海雲山岩殿寺)の由来は今からおよそ千三百年もの昔、大和の国(奈良県)の長谷寺の開山、徳道上人(六五六~七三五)がこの地に下向されたときに始まる。
徳道上人がこの地の近くまでこられたとき、空に色鮮やかな雲がたなびき地上からはひとすじの光がその雲に突き入るを見た。上人がその光の出どころをお探しになると、そこにはひときわ高く聳える奇岩の峰があり、三方に屏風のような岩がそばだち、中央は平らで絨緞のような苔が生えていた。上人は「ここは清浄無塵の禅窟なり」として、そこに禅床をつくり、坐して勧請された。夜も深まり三更にいたるころ、いずこからともなく十一面観音陀羅尼を唱える声が三方の岩々にこだましつつ聞こえてきた。不思議なこともあるものだなと思いながらさらに上人が陀羅尼を念誦しつづけていると、一方の岩肌に光明がふりそそぎ、十一面観音のお姿が浮かび上がった。そのとき麓より一人の老翁が登り来て、ともにその尊容を拝した。そして上人に向かって申すのに、 「ここは大悲垂応の霊洞です。私はその姿を拝しており、ずっとその尊容をお守りして久しくなります。この地は花を祭る山です。どうか万民のためのよき霊場をつくってやってください」と語り終わると、老翁は掻き消すように姿を消してしまった。上人は、いまの老翁こそ熊野権現の化身にちがいないと感じ、そこで木を伐り石を積んで社を構え、仏城興隆の鎮守として祀られた。そして、麓の村人たちに「この山はのちに大悲の浄刹になるであろう」と説いて大和の国に帰られた。
その数年後、行基菩薩(六六八~七四九)がこの地を訪ねたところ、やはり同じように瑞光を見てこの峰に登り、大悲者の影向をみたこと徳道上人のそれとおなじであった。行基菩薩は十一面観音の尊像を岩に彫り、この地を永く青門利生の霊場とされた。この寺が徳道上人、行基菩薩を開基とするのはその由縁による。
当山大悲殿(観音堂)よりは、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより伊豆、房総の半島を一望にできる絶景の地であることから、山号を「海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。
正暦元年(九九〇年)三月十七日花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧供養御法要を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
承安四年(一一七四年)四月十八日後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。
また、源頼朝公が伊豆の蛭ヶ小島で不遇の日々を送っていたころ、当寺の本尊様を篤く信仰し、平家追討の石橋山の合戦での敗戦のおりには当山の観音さまが船頭に姿を変えて海路房州(千葉県)まで案内し、無事に護り導くやいなや、たちまちのうちに観世音の妙容をあらわして三浦に飛び去ったという伝説がある。
やがて、鎌倉幕府の時代になると、頼朝公は毎月欠かさず参詣され、朱印地を寄進された。当時の記録として文治三年(一一八七年)に頼朝公の姫が参詣、承元三年(一二〇九年)には三代将軍実朝公が参詣されたとある。
時代は下って、将軍徳川家康公は代官長谷川長綱に命じて境内の整備と田畑山林、諸堂宇の充実をはかられた。
明治の文豪、泉鏡花は逗子滞在中にしばしば当寺を訪れ、観音堂をモチーフに『春昼』『春昼後刻』などの作品を残した。山門左脇には『句碑』が建立されている。また、観音堂右にある池は鏡花が寄進したものである。
(以上、『吾妻鏡』、『三浦群誌』、『相模風土記』および上地旧家文書による)
ということは坂東三十三観音霊場を定めたのは後白河法皇?
こんな説ともとれるパンフレットに巡り合いました。
この日、どなたかの法事があったようで、境内は人が多く、数年前にはセミの声しか聞こえなかったのと対照的でした。
観音堂は山の中腹にあり、景色はいいのですが、厳しい・・・。
2012年1月28日 訪問
昼ご飯は、一度行こうと思っていた、十二所の竹庵に。
みそ煮込みうどんを食べました。