浦賀の海上バスの駅から東叶神社に向かっていく途中にあります。
鎌倉の光明寺末寺とのこと。
創建は一五二三年、開基は良通。
火災、震災で現在は大正に復興したようです。
中島三郎助と息子恒太郎、英次郎の墓が海側にあります。
戊申戦争といっても、近代の歴史に疎いワタシにはピンときませんが、函館で戦死した父子だそうです。
浦賀のこの一角はそれほど広くはないのですが、神社仏閣が多いところです。
潮の香りを楽しみながらの散策となります。
長谷から鎌倉まで、再び江ノ電で行きました。
鎌倉からは歩きで杉本寺へ。
けっこう距離があって、バスに乗ればよかったかと後悔しきりです。
でも段葛を久しぶりに歩き、頼朝が自ら土を運んだと聞いている上を歩く。
桜の季節にくればもっと楽しめそうですが、そのときは段葛も人でいっぱいでしょう。
空いた段葛は、もしかしたら、この冬の季節ならではかもしれません。
八幡宮前を左に行き、道なりにだいたいバス停三つ目くらいでしょうか。
ありました。
入場料二百円。
鎌倉は結構お金がかかります。
藁ぶき屋根の古刹は見応えがあります。
堂に入る場所が、売店のところなので、若干狭く感じます。
人をよけながらお参り。
御朱印をいただき、無事すませました・・・が
この日、この近くにある頼朝の墓が壊されたそうです。
犯人は庖丁を持って、八幡宮にいたところを捕まったとか。
頼朝の墓を壊すとは・・・悲しい。
パンフレットより
当山は大平六年(七三四)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立」行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。
次に、仁寿元年(八五一)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠」て十一面観世音を刻み安置し、また寛和二年(九八五)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併て坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫より今日に至るまて貴賤の順礼絶えず。時に文治五年十一月二十三日の夜、隣屋より火災起り、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉のてに火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。
其の後、建久二年九月十八日に源頼朝公御堂再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ら賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちずる者は必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。
時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈眼を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟により落馬等の利罪も止むと云う。依て頼朝時代より秘仏とされたのてある。
浅草の浅草寺に行こうと、東京行きの準備をしていたのですが、鎌倉にしようと急に変えました。
杉本寺と長谷寺の巡礼が残っていたので、そちらに行くことにしました。
今日はドライブでなく、相鉄・小田急・江ノ電と乗り継いでいくことに、自宅を九時半に出発しました。
もっと早くでかけるつもりが、洗濯機の調子がイマイチで、途中で止まってしまったので、洗濯が終わるのを待って出かけました。
藤沢から江ノ電に乗り換え、鎌倉へ!
休日ともなれば、いつもラッシュです。
この日も混んでいました。
長谷で下りる人が結構いました。
駅前から長谷寺までは列ができているように見えるくらい混んでいました。
長谷寺は何度も来たことがありますが、いつも混んでいます。
坂東三十三観音霊場巡りの中でも一番ではないかと思います。
入場料も三百円は、たぶん一番高いのではないかと思います。
確かに、境内は広いし、仏像様もたくさんあるし、境内からの海を眺める景色も見応えがあります。
たっぷり1時間は散策したと思います。
まだまだ時間が足らないのですが、杉本寺までは距離もあるので、後ろ髪を引かれながらあとにしました。
パンフレットより
鎌倉長谷寺 かいこうざんじしょういんはせでら
正式には、海光山慈照院長谷寺と号します。
往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、奈良時代の天平八年(七三六)開創を伝え、寺伝に曰く、聖武天皇の御代より勅願所と定められた、鎌倉有数の古刹であります。
本尊の十一面観音菩薩像は像高三丈三寸(九・一八m)にも及ぶ本邦最大級の木彫仏で、東国を代表する観音霊場の象徴でもあります。
伝世する寺宝により鎌倉時代には一山としての寺観が整っていたとみられ、同じ頃の成立と伝わる、坂東三十三所観音霊場の第四番札所に定められた当山は、諸方からの篤い帰依によりその法灯を今の世に伝えております。
なお、観音山のすそのから中腹にかけて広がる境内は、四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添え、また、遠く相模湾が臨まれる眺望は、鎌倉随一とも賞されます。