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巡礼を楽しむ レキササイズ season 4

歴史散策の楽しみのひとつ。霊場巡りをお気楽に楽しんでいます。

レキササイズって、造語です。
歴史散策をしながらダイエットをしようというところから
レキシ+エキササイズの意味合いで名づけました。
ダイエットもそろそろ頑張ります。

衣笠合戦のときに、和田義盛は彼の奴田城で戦うことを進言したそうです。その奴田城にも行ってきました。ワタシは浦賀側から山越えで向かいました。かなり目的地の近くにきたはずなのですが、地図を確認してもピンときません。貝塚ならあるのに・・・。と、ウロウロ探し回ったのですが、なんと貝塚が城址とわかり、ドッと疲れがでました。小高い丘です。四方が良く見えます。山の入り組んだ衣笠城に比べると、だいぶすっきりした場所にあるように思えます。
三浦義明が名のある衣笠城での決戦を決断し、和田義盛の進言は却下されています。最後まで戦い抜こうとしていた義盛と、次の一手を死ぬ直前まで考えていた義明との対照的な心の動きを感じてしまいます。義盛は、この性格故に、戦いで死んでいくことになったと思ってしまいます。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-奴田城20091226

案内板

三浦一族と奴田城
平安時代の前九年の役(1051~1062年)で軍功があったことにより、平為通は三浦半島を与えられ、以後、三浦氏を称したと伝えられています。三浦一族は衣笠城を本城として、平作川流域の拠点に大矢部城や佐原城など、いくちかの支城を築きました。そのひとつで、最も海に近く位置しているのが奴田城です。
1180年、源頼朝は平氏を打つために挙兵しますが、石橋山の合戦に破れ敗退します。頼朝側についていた三浦一族も、平家側に追われ、衣笠城にたてこもりますが。この衣笠合戦の際、和田義盛は衣笠城ではなく、より要害の地である奴田城にたてこもることを進言したと言われています。
『平家物語』(延慶本)には、「奴田城コソ、廻ハ皆石山ニテ一方ハ海ナレバ、吉者百人計タニモ候ハバ、一ニ万騎寄タリトモ、クルシカルマシキ所」と書かれ、奴田城は周囲が急な崖で、一方は海に面した要害の地であったことが読み取れます。


続いて、衣笠城を囲うようにある佐原城、大矢部城、小矢部城の跡を巡りました。『相模のもののふたち』(永井路子著)の中で、氏がこれらの城を考察する中で、久里浜の港を囲う、馬蹄のようなレイアウトのように並んでいることを指摘していました。三浦一族の守りの陣形でもありそうなので、一通り巡っておかねばと・・・。

2009年12月26日 訪問

大矢部に伝説として残っているのが、腹切松公園にある腹切松です。オリジナルの松はとっくに枯れていますし、もともとは違う場所にあったということです。今は、児童公園内の片隅に、碑とともに何代目かの松があります。

案内板
三浦大介腹切の松(伝承地)
この地は、治承四年(一一八〇)八月廿六日、源頼朝の源氏再興に味方した三浦一族が、当時、平氏方に属していた武蔵国の武将である江戸重長・河越重頼・畠山重忠・金子家忠等の率いる3千騎の大軍に攻められ、翌廿七日、三浦氏の拠点衣笠城は落城し、三浦一族は房総の地に逃れると云う衣笠合戦の際、三浦一族の家長である三浦大介義明(当時八十九歳)は、衣笠城と運命を共にしたが、云い伝えによれば、大介は城より戦い逃れ、祖先の霊の眠る円通寺(現在海上自衛隊弾薬庫の処にあった)を望むこのあたりの松樹の下で割腹自害を遂げ、武名を後世まで遺したと云う。
また、源氏再興に成功した源頼朝は、三浦大介の誠忠を高く評価し、彼の死後十四年目の建久五年、大介の菩提を弔うため、堂宇の建立を命じた。それが満昌寺の創建とも伝える。 かつて、ここに一樹の古松があって、大矢部の里人は大介腹切の松と称し、その由来を大切に伝えて来た。宅地と化した今も、この地を公園として多くの人々に開放し、この伝承を永く後世に遺したいと願う次第である。
昭和四十九年十二月 山下土地区画整理組合
道案内板もなく、意識してこなければ見落としてしまう史跡でした。さて、衣笠城を抜け出した三浦一族は、海路房総半島に進みます。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-腹切松20100619

2010年6月19日 訪問

歌が書いてある看板が気になります。
『朝日さし夕日かがやく西山の稲荷の森は黄金なるなり』

財宝が埋まっているのかなぁ・・・

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-衣笠城址20091219-2

2009年12月19日 訪問

二回目の衣笠城址訪問は、猛暑の夏の大善寺側のルートからでした。横浜横須賀道路の衣笠ICを出ると、『衣笠城址』の交差点があります。城址のヒントはそれだけのように思えます。どう行ったらいいのだろう。

手持ちの地図で、大善寺のあるほうを目指します。ここ数年で、いろいろ道路が開けたりで、古い地図は微妙に違っていたりするようです。住宅地の中のきつい坂を上ります。この坂は本当にきつく、ダイエット中のワタシは数回休みました。畑があったりしたのですが、猛暑のせいか、景色の記憶はほとんど残りませんでした。前回の裏側ルートのほうが楽だったかも・・。

案内板
大善寺と不動井戸
この寺は、曹洞宗に属し、「金峯山不動院大善寺」と称します。
天平元年(七二八)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てられたのが大善寺であるといわれています。そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水がわき出ました。その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸の辺りであると伝えられています。
康平六年(一〇六三)、前九年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城です。衣笠城は第七代泰村が、北条時頼との勢力争いに破れ、一族五百余人と鎌倉の法華堂で宝治元年(一二四七)に討ち死にするまでの約百八十四年間、三浦一族の本城でした。
大善寺、蔵王権現、不動堂は、衣笠城の中にあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしました。とくに不動尊は、第二代為継が後三年の役に出陣したとき、戦場に現れ、敵の射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、その伝説によります。また、行基によって開かれた泉は衣笠城の重要な生活用水でした。いつの頃からか、「不動尊御手洗池」通称、「不動井戸」と呼ばれるようになりました。
現在、蔵王権現社も不動堂も残っていませんが、不動明王像は、大善寺に本尊として祭られています。今ある大善寺は、明治二十九年に全焼した堂宇を昭和十年に再建したものです。

横須賀市


なんとか大善寺にたどりつくと、石段が待っていました。ここもなんとかクリアーし、本堂の前にたどり着きました。本堂に向かって左側に、城址に向かう坂道がありました。ここは木が茂っていて、直射日光の攻撃は避けられます。なんとか上りきると、衣笠城址と書いてある木柱があります。さて、衣笠城址となっている広場ですが、思っていたよりは広くありません。どんなつくりのお城だったかわかりませんが、この広場だけがお城ではなく、山全体がお城だったのでしょう。

築いたのは三浦為通。前九年の役での軍功から、源頼義から三浦の地を与えられ、康平年間(1058~65年)に築いたとか。彼が三浦一族の初代になるそうです。この地で生まれ、この合戦で死んでいった三浦義明は四代目になります。そして、この城は、義澄、義村、泰村と引き継がれていきます。
宝治合戦(1247年)で、三浦一族主流が滅亡して、廃城になったそうです。
200年弱の期間、この地を守ったことになります。

巡礼を楽しむ レキササイズ season 4-衣笠城址20110504

2011年5月4日 訪問