衣笠合戦のときに、和田義盛は彼の奴田城で戦うことを進言したそうです。その奴田城にも行ってきました。ワタシは浦賀側から山越えで向かいました。かなり目的地の近くにきたはずなのですが、地図を確認してもピンときません。貝塚ならあるのに・・・。と、ウロウロ探し回ったのですが、なんと貝塚が城址とわかり、ドッと疲れがでました。小高い丘です。四方が良く見えます。山の入り組んだ衣笠城に比べると、だいぶすっきりした場所にあるように思えます。
三浦義明が名のある衣笠城での決戦を決断し、和田義盛の進言は却下されています。最後まで戦い抜こうとしていた義盛と、次の一手を死ぬ直前まで考えていた義明との対照的な心の動きを感じてしまいます。義盛は、この性格故に、戦いで死んでいくことになったと思ってしまいます。
案内板
三浦一族と奴田城
平安時代の前九年の役(1051~1062年)で軍功があったことにより、平為通は三浦半島を与えられ、以後、三浦氏を称したと伝えられています。三浦一族は衣笠城を本城として、平作川流域の拠点に大矢部城や佐原城など、いくちかの支城を築きました。そのひとつで、最も海に近く位置しているのが奴田城です。
1180年、源頼朝は平氏を打つために挙兵しますが、石橋山の合戦に破れ敗退します。頼朝側についていた三浦一族も、平家側に追われ、衣笠城にたてこもりますが。この衣笠合戦の際、和田義盛は衣笠城ではなく、より要害の地である奴田城にたてこもることを進言したと言われています。
『平家物語』(延慶本)には、「奴田城コソ、廻ハ皆石山ニテ一方ハ海ナレバ、吉者百人計タニモ候ハバ、一ニ万騎寄タリトモ、クルシカルマシキ所」と書かれ、奴田城は周囲が急な崖で、一方は海に面した要害の地であったことが読み取れます。
続いて、衣笠城を囲うようにある佐原城、大矢部城、小矢部城の跡を巡りました。『相模のもののふたち』(永井路子著)の中で、氏がこれらの城を考察する中で、久里浜の港を囲う、馬蹄のようなレイアウトのように並んでいることを指摘していました。三浦一族の守りの陣形でもありそうなので、一通り巡っておかねばと・・・。
2009年12月26日 訪問




