三浦氏四代目の墓ですが、まずは清雲寺近くの満昌寺にあります。
このお寺、義明山と名がついています。
2010年6月19日 訪問
横浜横須賀道路の衣笠ICを出て、衣笠城址の交差点を右に進みます。しばらく進むと、左側に満昌寺があります。右側に清雲寺の案内板が見えます。案内板に沿って、道なりに進むと清雲寺があります。境内に入ると案内板があります。
案内板
横須賀市指定史跡
伝三浦為継とその一党の廟所
昭和四八年一月十日指定
三浦氏三代とは初代為通、二代為継、三代義継をいう。この地には中央の三浦為継墓と伝える五輪塔が存在したが、昭和十四年に付近にある深谷の円通寺跡やぐら群から、為通、義継の墓と伝えられる五輪塔を移転し、三代の墓として祀ったものである。
左右いずれが為通、為継の墓か不明であるがいずれも凝灰岩製で鎌倉時代の様式を示している。
為通は関東平氏の流れをくみ康平六年(一〇六三)源義家より三浦の地を賜り、衣笠城を築いた武将で、為継、義継も源氏に従い武勇に優れた名だたる武将であった。
なお、左右にある石塔群及び文永八年銘(後銘)板碑は、三浦九十三騎墓と伝えられやはり同時期に移されたものである。
平成二年三月三十一日 横須賀市教育委員会
この日、墓がどこにあるのかキョロキョロしていたら、奥に進む門を見つけました。門にはセキュリティがあって、見た感じは入り辛そうな門でした。モンモンしていたら、ちょうど住職さんが出てきて
「どうぞお入りください。」と一言声をかけてくださいました。
これで安心して門を開けて、入っていきました。本堂と並んだ石の灯篭の間の道を進みます。本堂に沿って左に曲がるとすぐに右側に三浦一族の墓がありました。
一度来ようと思っていた場所に来れたので、感動・・・。確かに五輪塔が三つならんでいました。彼らの存在があって、中世の歴史がつくられてきた。そんな思いがこみ上げてきます。
そうして、四代目義明の墓にも行かねばと・・・。
2010年6月19日 訪問
佐原城址へ行こうとしたことは二回あります。
一回目は、道がわからず断念。横浜横須賀道路が佐原ICから馬堀海岸ICへ延長する前の地図を見て行ったのが失敗の原因だったようです。
一回目は、聖徳院の裏に城址の碑があるとのネットの情報を信じて向かったのですが、聖徳院の裏には横浜横須賀道路が走っていました。この道路が出来る前にくればよかったと思いつつも、そのまわりをウロウロと探し回りました。しかし、見つけることが出来ずに諦めました。
二回目は、再度いろいろなネットを確認して、一回目が間違いだったことが判明しました。かなり横浜横須賀道路の佐原IC寄りのところから入りました。前回は聖徳院を目印にしたのが、そもそも間違いだったっということに気がつきました。今回は、丘の上のマンションらしき建物の駐車場の横の道を通っていきました。下りの狭い道に出る寸前に、左に入る狭い道があり、その入り口に城址の案内板がありました。
そっかぁ、ここが佐原城址。この丘全体がきっとそうに違いないと納得しました。城主は佐原義連。三浦義明の六男(らしい)にしては、結構目立つ活躍をしてきた人物。そして、宝治の乱でも生き残る三浦は、この佐原系だけということになり、後に三浦の姓を継いでいます。そんな彼の城址ということに。
案内版と碑以外には何も残っていません。当時は、久里浜側は湿地帯だったとか。今は住宅地、工場がたっているだけ。自動車関連工場もあったようですが、そこは広大な空き地になっています。
案内板
佐原城址
康平六年(一〇六三)、前九年の役の戦功により、三浦半島を領地としてヽ与えらた平大夫為通は、三浦の姓を名乗り、現在の衣笠町に衣笠城を築きました。以後、数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して、衣笠城の守りとしました。
この台地は、第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連が、城を築いた所と伝えられています。現在、この台地を中心に残っている地名に、的場・射矢谷・殿騎・城戸際・駿馬入・腰巻などがあり、自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子をしのばせてくれます。
この台地の前方、北から東にかけての地域は、内川新田と呼ばれ、工業団地になってぃますが、当府は深い入り江となっていました。この入り江をはさんで、対岸に怒田城がありこの佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
また、この台地は、昭和五十一年の一部発掘調で、弥生時代中期(約二〇〇〇年前)から飛鳥時代(約一四〇〇年前)にかけての村の跡了あることも明らかになっています。七、八軒の家があって、この谷戸付近に初めて水田を開発し、稲作農業を営んでいたと考えられています。
横須賀市
2011年4月10日 訪問