六条富小路に蓮光寺という浄土宗のお寺があります。

 

ここには山内一豊が土佐入りするまで彼の地を治めた戦国武将・長宗我部盛親の墓があります。

 

京都の人にとっては駒止地蔵尊のあるお寺といった方が馴染み深いのかな。

 

 

駒止地蔵尊とは弘法大師(空海)が作った地蔵尊といわれ、かつて多くの処刑が行われた六条河原の刑場に祀られていたもの。

 

平清盛の馬が足を止めて動かないことを不思議に思った清盛は、馬の足元の地面を掘らせたところ、地中より現れたのがこの地蔵尊であったとか。

 

地蔵尊を掘り起こした後、馬は再び歩き出したそうです。

 

これはたびたび起こる鴨川の氾濫で地中に埋まってしまったからだそうで、以来「駒止地蔵」とか、「馬止地蔵」と呼ばれるようになりました。

 

ここまでの話を読んで、「あれ!?」と思った方は鋭いです。

 

そう、このお寺が建立された当初は真言宗だったのです。

 

豊臣秀吉による強制的な寺院の移転でこの地に移った際、浄土宗に改めたそうで、知恩院の末寺となったそうです。

 

 

 

この訪問時(2019年6月)、まだ朝でしたが門が開いていたため、丁重にご挨拶をして寺内への参拝をお許しいただきました。

 

 

 

本堂は京都の大工頭である中井大和守の寄進によるものと伝わります。

 

中井大和守は徳川家康に重用された正清を初代とし、江戸城や江戸の町割り、名古屋城や二条城、増上寺、久能山と日光のそれぞれの東照宮などを建築した大工で、この連光寺本堂は2代目正侶、あるいは3代目の正知の時の建築ではないかと思われます。

 

駒止地蔵尊は蓮光寺に入ってすぐ左手にあります(写真は都合により割愛ショボーン

 

さて、本題の長宗我部盛親について。

 

土佐の出来人といわれた四国の覇者・長宗我部元親の四男として産まれました。

※盛親は6人兄弟

 

長宗我部は長曾我部とも長曽我部とも記されますが、ここでは長宗我部で統一します。

(お寺では長曾我部)

 

長男は元親が溺愛した信親。

 

信親は元服の際に織田信長が烏帽子親を務め、「信」の字が与えられたほどの逸材で、家臣団だけでなく領民からの信望が厚かったといわれます。

 

ところが、豊臣秀吉による九州征伐の際、長宗我部元親、信親は先発軍として従軍、主将の仙石秀久による無謀な突撃に島津家の得意とする釣り野伏にまんまとひっかり、仙石秀久は真っ先に敗走、信親は大長刀や太刀で大奮戦するも討死してしまいます。

 

この戦い(戸次川の戦い)で長宗我部親子は仙石秀久の作戦に反対していたものの、秀久が強引に決めたといわれています。

 

無謀な作戦に怒りを爆発させつつも討死を覚悟して臨んだといわれ、享年22という若年での死でした。


また、秀久は軍監の立場にもかかわらず敗走する兵をまとめずに真っ先に戦場を離れて逃げ、自国(讃岐国)へ一目散に帰ってしまったことから、豊臣秀吉の怒りを買って改易(領国を没収)、高野山へ追放処分となりました。

 

信親の討死で父・元親に与えた衝撃ははかり知れないほど大きく、自害をしようとして周囲の家臣たちが必至で諫めたそうです。

 

また、信親の死は長宗我部家臣団に衝撃を与えただけでなく分裂を生みました。

 

次男で香川氏の名跡を継いでいた香川親和を推すグループ、津野氏の家督を継いでいた三男の津野親忠を推すグループ、そして四男の盛親を推したい当主の元親。

 

天下人の秀吉は香川親和に家督を相続させるよう促しましたが、元親は拒否しました。

 

結果、周囲の反対を仕切って粗暴で短気といわれた四男・盛親を跡継ぎに指名し、盛親の正室に信親のひとり娘(盛親の姪)を嫁がせました。

 

ただ、豊臣政権から盛親は長宗我部家の当主として認められなかったのか、無位無官だったといわれています。

 

盛親が元服する際、増田長盛が烏帽子親となり長盛の「盛」を授かりました。

 

増田長盛は豊臣政権下では重臣ですが、兄の信親は織田信長が烏帽子親になったのに対して、豊臣政権下では評価が低かった表れととる研究者が多いです。

 

秀吉の意向を受け入れなかったのが原因かもしれませんね。

 

こちらが蓮光寺の奥にある長宗我部盛親の墓所です。

 

墓所には「土佐守」とあります。

 

 

 

盛親は徳川家康が会津征伐に向かった際、西軍に属して伏見城、安濃津城を落とし、関ヶ原の戦いに臨みました。

 

しかし、東軍に通じていた吉川広家の陣の後方に位置していたために、参戦することができないまま西軍は敗戦。

 

やむなく戦線を離脱し、大坂を経て土佐に帰国しました。

 

帰国後、井伊直政を通じて徳川家康へ謝罪を請いましたが、盛親家臣の久武親直の讒言を受けて兄の津野親忠殺害したために家康の怒りを買い改易処分となりました。

 

盛親は京都に出て大岩祐夢と名乗って頭を丸めました。

 

一説には寺子屋の先生になったとも。ただし、寺子屋云々は裏付ける資料が存在しません。

 

大名としての長宗我部家再興を諦めませんでしたが、徳川政権下では叶わないと諦めたのか、大坂冬の陣が始まる前に豊臣家を頼りました。

 

盛親が大坂城へ入ると旧臣らが続々と集まり、牢人衆最大の戦力となりました。

 

しかし、結果はご存じの通り。

 

大坂城が落城する前に再起を図って逃げ落ちました。

 

 

京と大坂の間にある橋本に隠れていましたが、豊臣方の小判を使用したために村人に怪しまれ、蜂須賀家の家中の者に見つかり、伏見へ護送。

 

二条城の門前で晒され、市中引き廻しの上、豊臣国松らとともに六条河原で斬首となりました。

 

享年41でした。

 

豊臣方の五人衆の一人といわれ(他は真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登)、その中でも最大兵力を持った盛親でしたが、唯一人生け捕りにされてしまいました。

 

捕縛後に蔑まれることもありましたが、「右手と命があれば家康、秀忠を同じような目に遭わせることができたのに」と嘯き、「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」とも言った盛親は、出家をするからと命乞いまでしたそうです。

 

恐らく出家しても再起を図ろうとしていたのですね。

 

2度も戦を挑まれた家康にはその意図が分かっていたからこそ、死罪を申し渡したのだと思います。

 

当時の武将の死生観でいうなら潔く自刃するのが「お見事!」なのかもしれませんが、必ずしもそうだと私には思えません。

 

命ある限り諦めない気持ちを持ち続ける、

そのためにも命は大切にする

 

盛親からそう教わったような気分です。

 

余談ながら、大坂夏の陣から36年後、由井正雪による幕府転覆計画が発覚(由井正雪の乱、慶安事件)しますが、その時に正雪の右腕として鈴ヶ森で磔刑に処せられた丸橋忠弥は本名を長宗我部盛澄といい、盛親の子孫という説がありますが真偽は不明です。

 

盛親亡き後も幕府に挑む長宗我部家に当時の庶民はどう思ったでしょうねニコニコ

 

余談ついでに新選組に入隊、後に脱退して御陵衛士、近藤勇を狙撃した篠原泰之進は丸橋忠弥の子孫といわれています。