気まぐれなブログで失礼しますてへぺろ
 
秀吉が建立した方広寺、そして大仏殿は何もかもが巨大だったと確か・・・昨年の夏に書きました。
 
その時のブログは、こちら
 
最盛期の方広寺の寺域は三十三間堂や法住寺を含む範囲であったという話ですが、いろいろと調べても具体的に図示されているものはありません。
 
それでいろいろと想像をしてみました。
 
まずは南大門。
 

 
この巨大な門は三十三間堂の南大門として知られていますが、正式名称は蓮華王院 南大門。
 
豊臣秀頼が慶長5年(1600年)に建立したものといわれ、当時は方広寺の南大門といわれていたのではないかと。
 
現在は国の重要文化財です。
 
 
そしてこの南大門から西側に続く築地塀も国の重要文化財。
 
この塀が通称「太閤塀」といわれるものです。
 
 
秀吉が方広寺を造営するにあたってその周囲を整備したといわれているので、方広寺の寺域をぐるりと巡らせたのではないかと思います。
 
高さは5.3m。
 
写真はありませんが、瓦には豊臣家の五七の桐が入れられていました。
 
この太閤塀は残念ながら南大門から西角に続く部分しか遺されていませんが、それでも92mの長さは圧巻。
 
反対側(西側)からみるとこんな感じです。
 
 
西端はこんな感じで終わっており、新しく作られた五線の塀が七条通まで続きます。

 
豊臣秀頼は徳川家康の勧めもあって、亡き父・豊臣秀吉の供養のために方広寺の再整備を積極的に行っています。
(方広寺だけではありませんが…)
 
先の南大門に続いて慶長6年(1601年)には西大門を寄進しました。
 
現在、西大門はその場所になく、南大門が焼失したままになっていた東寺に明治28年(1895年)の平安奠都1100紀年祭の一環として移築されました。
 
現在の東寺の最大建築物であるこの門の大きさからも方広寺の巨大さが想像できるのではないでしょうかキョロキョロ
 
西大門はこの地からなくなりましたが、西之門町という町名にその名残をとどめています。
 
これらから私が勝手に想像(妄想!?)した最盛期の方広寺の範囲はこんな感じです。
 
 
この規模、現在のお東さん(東本願寺)、お西さん(西本願寺)よりも大きいですが、壮大、豪壮が大好きな秀吉の造営ならあり得るのかなと思うのでした。
 
誰かこの研究をしてくれる人、現れないかしら!?
 
 
 
そして南大門を潜って三十三間堂側から見た内側の写真です。
 
門を潜ると左手には三十三間堂の回廊塀が東大門へと続きます。
 
朱塗りと白壁が鮮やかですね。
 
 
この回廊塀と写真奥に見える東大門は昭和36年(1961年)の建築です。
 
そして道路奥に見えるのは国立京都博物館です。
 
とりとめにない気まぐれブログ(笑)、今日はこの辺で。
 
※写真は2019年5月撮影