またまた、またずいぶんと間を開けての更新です。
 
約4か月ぶりの更新です。
 
前回のブログ更新が4月23日。
まだ平成時代でしたニヤリ
 
つまり本日の更新は令和になって初めてのブログですてへぺろ
 
前回は確か…豊国神社について書きました。
 
その豊国神社にはちょっと変わったものが手水鉢にあります。
 
手水鉢には龍の口から水が湧き流れるのをよく見かけますが、この豊国神社の手水鉢には甕形の陶器から流れる水でお清めをするのです。
 
そしてその甕には太閤桐が描かれています。
 
 
豊臣秀吉が用いた家紋は桐紋が有名ですが、時期によってその桐紋は異なります。
 
まず、羽柴秀吉の時代には織田信長より下賜された五三の桐を使用していました。
 
これです
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やがて関白となった秀吉は後陽成天皇より豊臣姓と五七の桐を下賜されると家紋を変えます。
 
これですね。
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五三の桐、五七の桐の紋様の違いは花の数にあります。
 
真ん中に5つ、両サイドに3つずつの紋様が五三の桐、真ん中に7つ、両サイドに5つずつの紋様が五七の桐です。
 
この桐紋は古来より皇室・朝廷の菊紋に次ぐ副紋として使用されてきました。
 
その後、鎌倉幕府を倒した足利尊氏が勲功第一の褒美として後醍醐天皇より、「尊」の字と菊紋、桐紋を下賜されました。
 
もともと足利家の紋は「二つ引き」でしたが、桐紋が加わったのです。


二つ引き
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足利将軍家では2つの家紋を併用しつつ、幕府へ貢献した守護大名へ家紋を下賜してその使用を認めるようになります。
 
足利将軍家より賜った家紋はさらに守護大名からその家臣へと下賜されることとなり、使用者が広がっていったといわれています。

天皇 → 将軍 → 大名 → 家臣
 
織田信長といえば、「織田木瓜」といわれる木瓜紋が有名ですが、足利義昭が15代将軍に就くことができたお礼に足利家の紋である「二つ引き」と「五三の桐」の2つの紋が授けられています。
 
織田木瓜
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織田信長の有名な肖像画には桐紋が描かれているのは、足利家から賜ったからなのですね。
 
そして他の大名がしたように、信長も家臣の秀吉に五三の桐を与えたのでした。
 
やがて天下人となった秀吉は自らの家臣だけでなく、臣従した大名や陪臣(大名の家臣)にまで、豊臣姓あるいは羽柴氏と桐紋を次々に下賜していきます。
 
氏や姓、家紋が主君や時の為政者(天下人)から賜ることは大変な栄誉でしたが、それ以上に下賜する側の人間にとっても権勢を誇示するという意味ではとても気持ちのいいものだったのでしょうね照れ
 
ところが、秀吉の場合、それはまるでセールのように与えては使わせるのです。
 
そうするとどうなるか・・・ありがたみがなくなるんですよねショボーン
 
そのため産み出されたのが、秀吉だけの桐紋、いわば特別な桐紋が手水鉢に描かれた太閤桐なのです。
 
でも考えてみたらスゴいことです。
 
天皇から賜った桐紋を自らデザインしたものにアレンジして使ったのですから。
 
それだけの権威をほしいままにしていた秀吉だからできたことですよねキョロキョロ
 
それにしても豊臣秀吉という人は、政治にも戦にも長け、京都や大坂の街並みをデザインするだけでなく、自らの家紋までアレンジするデザイナーでもあったわけで、そのマルチな才能は現代の政治家が束になってもきっと敵わないでしょうね。
 
豊国神社や後日ご紹介する豊国廟には至る所に五七の桐が見られます。
 
 
 
 
 
時の為政者のシンボルとして使い続けられた(徳川幕府政権下では鋳造した小判等に刻印)桐紋ですが、現在の日本政府にも継承されているのですよ。