赤坂の山脇学園の敷地内にある武家屋敷門を見た後、真っ直ぐ行くと、赤坂警察署の裏手に出ます。
 
赤坂警察署の東側の道に坂道の標柱が立っていました。
(下の写真は赤坂警察署側から)
 
 
 
 
弾正坂とあります。
 
 
 
 
弾正坂の説明には
「西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。」
とあります。
 
弾正大弼って何?と思われる方もいらっしゃるでしょうから、簡単な説明を・・・自分のための復習ですがてへぺろ
 
古代律令政治の下で置かれた官庁のひとつに弾正台というものがあり、主に監察・治安維持などを担っていました。
しかし、刑部省などが警察権や裁判権を持っていたことや、平安時代になって治安維持のために検非違使が設けられるなどしたために、有名無実化した役職でした。
 
長官職の尹(いん)を筆頭にそれぞれ大少の弼(ひつ)、忠(ちゅう)、疎(そ)の職が置かれました。
尹・大弼・少弼・大忠・少忠・大疎・少疎ですね。
尹を長官(かみ)とするなら弼は次官(すけ)、忠は判官(じょう)、疎は主典(さかん)です。
「かみ・すけ・じょう・さかん」っ手習ましたよね。
 
江戸時代の官職名にはその名残が見られます。
細川越中かみ)や、吉良上野すけ)、遠山左衛門じょう)など・・・
 
近世になって自称する戦国大名も現れました。
織田信長は弾正忠を名乗っていました。
武田信玄の家臣にも三弾正として、高坂昌信、真田幸隆、保科正俊が自称していました。
 
一方で朝廷から名誉職として任じられている戦国武将もいました。
松永久秀(弾正小弼)、上杉謙信(弾正小弼)らです。
上杉家は江戸時代に入って以降、代々弾正大弼に任じられていました。
 
そのため、てっきり弾正坂と聞いて上杉家の屋敷に関係があるのかと思いきや違ったのです。
 
 
 
 
前回も登場した江戸切絵図に手書きの図で失礼あせるあせるあせる
 
今の「とらや」がある場所と赤坂警察署の間の道が弾正坂です。
 
 
 
 
赤坂警察署のある場所は上野国・吉井藩主の松平左兵衛督の敷地の一部であることがわかります。
左兵衛督は「さひょうえのかみ」と読み、この切絵図が作られた当時は第9代藩主の松平信発(のぶおき)でした。
 
官職名は昇進や転任で変わるため、よくわかりませんが、第7代藩主の松平信敬(のぶたか)は確かに弾正大弼でしたが、他の藩主は左兵衛督に叙任された者が多く、本当は弾正坂ではなく左兵衛坂とした方がよかったのではないかと思うのです。
 
 
 
 
ところで赤坂警察署の横は弾正坂とあったのですが、これは坂道なのか・・・びっくり
弾正坂という名前もどうなんだ・・・
 
そう訝しみながら青山通りまで来ると、本当の坂道はその先にありましたガーン
 
弾正坂は赤坂御用地(左側)と豊川稲荷(右側)との間に続く長い坂道だったのですね。
失礼しましたてへぺろ
 
いつかまた再訪してリベンジいたします。
 
 
 
 
最後に吉井藩松平家について。
 
数ある松平家の中でも少し珍しい由緒を持ちます。
初代は松平信平といい、もともとは鷹司家の人でした。

鷹司家とは五摂家(他に近衛家、九条家、二条家、一条家)のひとつで、お公家さんだったのです。
五摂家というのは藤原氏の中でも摂政、関白を独占してきた名門中の名門の公家なのです。
※歴史上、五摂家以外から関白になった例外は豊臣秀吉と秀次のみ
 
その鷹司信平は4男であったために鷹司家を継ぐことができず、3代将軍・徳川家光に嫁いだ姉の孝子を頼って江戸へ出てきました。
その際、家光から旗本に取り立てられました。
 
やがて、紀州藩・徳川頼宣の娘を娶り、紀州徳川家と縁戚関係になったことから、松平を名乗ることが許され、松平信友となったのでした。
 
信友の孫にあたる松平信清の時に越前守に叙任、加増を受けて大名の仲間入りを果たしたのでした。
 
公家から旗本、そして大名となった珍しい事例ですね。
 
さらにこの江戸切絵図が作成された頃の当主 松平信発ですが、日米修好通商条約を締結する際に不平等条約であると断固反対の姿勢を貫いた気骨のある方でした。
 
幕府瓦解の時には徳川家と訣別する意味を込めて松平信発から吉井信発へ名前を変えています。
 
三条実美や岩倉具視らから新政府への出仕要請もあったようですが、断ったそうです。