牛鳴坂を牛の気持ちになって鳴き声を上げながら登ると立派な武家屋敷門が見えてきます👀
 
これぞ大名屋敷といわんばかりのその大きな門に圧倒されます!!
 
 
 
 
もともとこの門はここにあったものではありません。
 
説明板には
「この武家屋敷門は、江戸城東堀八重洲大名小路(千代田区丸の内東京郵便局付近)にあった幕府老中屋敷の表門で、文久二年(1862年)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。」とあります。
 
さらに続いて驚くべき説明が・・・
 
「当時は桁行五十八間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右両端が切り縮められて、門徒左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式をもつ唯一の意向である。」
 
次の写真はほぼ正面からの写真ですが、両端が切り縮められたとはいえ、結構な大きさです。
120mにも及ぶ長屋門って一体どんな大きさだったのでしょう…端から端まで歩くのに1分半もかかりますびっくり
 
 
 
 
構造としては2階建、切妻造、片流面出番所付属、本瓦葺の長屋門だそうです。
 
長屋門というのは大名が家臣などの居住空間である長屋と一体化した門が始まりで、その後、大名や上級旗本などの表門として普及したものです。
 
ただし、幕府によって格式や禄高などによってその規模や仕様が細かく定められ、自分の好きなように作ることは許されませんでした。
 
 
 
 
この門は観音開きの門扉の両脇に潜戸が左右両側について、さらに左右に番所が設置されたかなり立派な武家屋敷門です。
 
格式や禄高によって、と書きましたが、潜戸が門扉の片側にしかつかないものもあれば、番所も唐破風造りのものがあったり、出格子のものだったり、そもそも番所が片方にしかないものまで様々だったようです。
 
東京に現存する格式が高い武家屋敷門の代表例は東京大学の通称・赤門と国立東京博物館にある通称・黒門です。
 
前者の赤門は加賀藩前田家の上屋敷、後者の黒門は鳥取藩池田家の上屋敷にあった表門で入母屋造の屋根に門の左右には向唐破風番所が付設されたものです。(こちらはまたの機会に)
 
武家だけでなく例外として名字帯刀が許された庄屋や献金や公共工事に貢献した豪農にも長屋門の建築が許されたり、払い下げされたケースもあったそうですよ。
 
 
 
 
番所に寄ってよくよく見ると細部もすごいですね。
 
 
 
 
こちらは裏側から撮った写真です。
 
 
 
 
ところで、私の記憶では赤坂にこんな立派な武家屋敷門はなかったと思い、調べてみたら2年前の2016年に移築されてきたそうです。
 
幕末当時の岡崎藩・本多家の屋敷は、明治に入ると摂関家のひとつ九条家の屋敷になりました。
 
やがてその土地を司法省が使用することになり、どのような経緯かはわかりませんが、実業家・政治家である藤山愛一郎邸の表門として港区白金台に移築され、昭和22年(1947年)には重要文化財に指定されました。
藤山愛一郎の邸宅跡地は現在のシェラトン都ホテル東京ですから、その広大なお屋敷の表門にぴったりだったのでしょうね。
 
さらにその後、山脇学園の所有となり、昭和49年(1974年)に千葉にある山脇学園の九十九里臨海学校松籟荘へ移築、そして2年前に都内へ戻ってきたのでした。
 
 
 
 
さて、ちょっとマニアックに古地図(江戸切絵図)でその場所を確認しつつ、老中・本多美濃守忠民について。
 
本多美濃守忠民は、讃岐国高松藩の松平頼儀の四男として生まれましたが、災害と財政難にあえぐ岡崎藩の本多忠考(ただなか)の婿養子となって藩政の立て直しを期待されました。
この本多家は徳川家康の四天王の一人である本多忠勝を祖とする家柄で、つまり忠民は本多家の宗家を相続するのでした。
 
地図に目を向けましょう。
この門があったという場所(で囲った場所)をよく見ると、名前が違うではありませんかガーン
 
古地図(江戸切絵図)は作成された年によって屋敷の主が違うことはよくあることなのでした。
※下の画像は嘉永二年(1849年)頃です。お許しください<(_ _)>
 
この松平和泉守とは作成当時の老中で三河国西尾藩の松平和泉守乗全(のりやす)の屋敷だったことが窺えます。
それではその当時、本多美濃守忠民の屋敷はどこだったのか見ていると、で囲った場所でした。
 
この時の役職は寺社奉行で官名は美濃守ではなく中務大輔(なかつかさたいふ)だったということがわかります。
 
本多忠民はその後、京都所司代へ転任し、条約締結に向けた朝廷との調整に奔走しました。
その甲斐あって、万延元年(1860年)に松平乗全が老中を辞任すると、本多忠民が老中に就任したのでした。
本多忠民が赤で囲った屋敷の主になったのは、この老中就任のタイミングだったのでしょうね。
 
その政治手腕が高く評価されてか、やがて老中首座(筆頭老中)にまで登り詰めます。
この門が建てられた当時はまさにその老中首座の時代でした。
 
 
 
 
ところでこの古地図を眺めていていつものように話は脱線するのですが・・・
 
地図の中上にある松平肥後守は会津藩の松平家上屋敷です。
幕末に京都守護職として登場する松平容保は次期藩主としてまだ世に出る前だったので、恐らく芝の中屋敷に居住していたかもしれませんね。
 
お堀を隔てた阿部伊勢守は福山藩主の阿部正弘です。
現在は東京海上日動ビルが建っているところです。
この古地図が作成された当時は老中首座(筆頭老中)として幕政の舵を握っていました。
身分に関係なく能力のある者を抜擢する阿部正弘のお蔭で、江川英龍(太郎左衛門)、大久保忠寛(一翁)、勝安芳(海舟)、永井尚志、中浜万次郎(ジョン万次郎)らが次々に登用されました。
 
下の松平土佐守は土佐藩の山内家です。
現在の東京国際フォーラムの場所です。
この当時の藩主は四賢候の一人で自らを「鯨海酔候」とうそぶいた山内豊信(容堂)です。
 
図の右下にある松平越前守は越前藩・松平家です。
現在は来月(2018年8月)に竣工予定の大手町プレイスです。
当時の藩主は松平慶永(春嶽)ですね。
 
幕末好きの人にはたまらないエリアかもしれません。
そういえば、坂本龍馬が松平春嶽に謁見を許されたといわれるのは、この常盤橋にあった越前藩の上屋敷ですね。
 
 
 
 
ついでと言っては何ですが、北町奉行所(東京駅八重洲北口の一帯)と南町奉行所(有楽町駅周辺)もで囲みました。
 
各町奉行所の所をよくよく見ると、当時の奉行名が記載されています。
 
北町奉行は井戸対馬守覚弘(さとひろ)で、後にペリーが来航した際に米国使節応接掛として日米和親条約の締結を担当しました。
その働きぶりが評価されて、旗本としては最高役職である大目付に栄転しました。
 
南町奉行は遠山左衛門尉景元です。
ご存じ、桜吹雪でお馴染みの遠山の金さんです!!
 
赤坂の武家屋敷門からずい分と話が脱線しましたが、歴史に興味を持つって言うことはこういうことなんですよね。
それがどこにあって今はどうなっているんだろう・・・古地図を眺めているとついつい興味が膨らんでしまい、悪い癖が出たっていうお話でした。